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他者を書くということ:クィアの観点から

※この記事は、米アイオワ大学国際創作プログラム(International Writing Program)参加中に、アイオワ公共図書館で開催されるパネル・ディスカッションのために書いた発表原稿です。パネルのテーマは「他者を書くこと(Writing the Not-Self)」。記事は英訳を前提に書きました。

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 一人のクィアの創作者として、私は常に「他者を書くこととはどういうことか」と自問自答せざるを得ない。

 日本でクィアの経験を書くのは容易ではない。日本はいまだに家父長制と男性優位、異性愛中心主義、シスジェンダー規範が強い国だからだ。日本の女性の平均年収は男性の6割~7割であり、国会議員における女性比率はわずか1割程度である。LGBTQ+コミュニティもひどい差別を経験している。

 文学の世界でも、やはりシスジェンダーで異性愛者の男性が権力を握ることが多い。このような環境において、女性やクィアの書き手が正当に評価されるのはとても難しい。私自身は女性で、日本では外国人で、そしてレズビアンという極めて周縁的な立ち位置で小説を書いている。そんな私がデビュー作からクィアの人たちの物語を書いてきたのだから、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの男性評論家から見当違いな批評をされたことも一度や二度ではない。

 日本ではLGBTQ+の物語が作られてこなかったかと言えば、決してそんなことはない。特に近年、小説だけでなく、アニメや漫画、映画、ドラマなどの流行文化においても、LGBTQ+の登場人物を見かけることが増えている。しかしながら、私から見れば、日本で作られたクィアの物語で、成功例は少ない。なぜかというと、作り手は大抵、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの人たちだ。彼らはクィアの人たちの生の実相や生きづらさ、そしてクィアの人たちに影響を及ぼす政治的な現実を描くよりも、クィア性を単に「目立つための題材」「面白い要素」として消費しているに過ぎない。言うなれば、「内側からではなく外側から描いている」とも言える。

 私は一人のクィアとして、クィア・コミュニティを内側から描く努力をしてきた。小説『ポラリスが降り注ぐ夜』では、アジア最大のゲイタウン「新宿二丁目」を舞台に、様々なバックグラウンドのクィアな女性たちの交流を描いている。一口「クィア」といっても、当たり前のことだが、みんな考え方も価値観も、世代も経験も様々である。そこには喜びがあり、悲しみがあり、絶望があり、闘いがある。力のない個人があり、個人を支えるコミュニティがある。クィア・コミュニティの内部でも差別や衝突といった緊張関係があり、またマジョリティ社会に対して連帯し、共闘してきた歴史がある。

 なぜこのような作品を書くことが重要なのか? それは、シスジェンダーでヘテロセクシュアルの人が絶対的多数を占める日本社会で、LGBTQ+は往々にしてマジョリティから「そういう人たち」ということでひとくくりにされ、片づけられてしまうからだ。マジョリティ側は往々にして、「ああ、分かってるよ、LGBTって性的少数者のことだろ?」というふうに、LGBTQ+という言葉を自分の語彙のコレクションに加えただけで「分かった」気になり、「ひとつ賢くなった」気になる。しかし、そんな態度は文学的とは言えず、単なる知的植民地主義である。マジョリティによる知的植民に抗するために、私はより高い解像度でクィアの物語を書く必要があった。そして高い解像度でクィアの物語を書くためには、クィア・コミュニティの内部から書く必要があった。

 私は、クィアの人でなければクィアの物語を書くべきではない、と言っているわけではない。自分自身の属性やアイデンティティに合致するキャラクターしか書けないようでは、狭隘な当事者主義にしかならないだけでなく、文学の本懐にも反する。ひっきょう、小説を書くこと、物語を書くこととは究極的には、他者を描くことだ。他者を描かずして、物語など書けやしない。

 しかしながら、一人のクィアの創作者として、私は、私たちのコミュニティが主流の文学作品やメディアで、病気として、変質者として、狂気じみた連続殺人鬼として、あるいは可哀想な人たちとして描かれ、消費されてきた数百年の歴史に思いを馳せずにはいられない。マジョリティ社会の偏見を再生産するようなこれらのマイノリティ表象は、マイノリティの経験を盗用しているのみならず、現実的に有害な場合も多い。今、私たちは毎週ここに集まり、文学や詩の素晴らしさについて語り合っているが、私は明言しなければならない。とりわけ周縁的な人たちにとって、テレビドラマや映画、時には文学作品も、害をなすのだ。

 幸い、クィア・コミュニティの内部から、高い解像度でクィアの物語を描き出す映像作品は、アメリカでは近年増えているように思う。これらの作品の共通点は、役者、あるいは監督本人がクィアだということである。

 繰り返しになるが、私は「クィアの人でなければクィアの物語を書くべきではない」と言っているわけではない。文学作品を書く上で、他者を描くことは避けられない。問題は描き方である。現実社会の偏見や固定観念を作品世界で肯定的に再生産しないというのが、倫理的な最低ラインだと思う。これは決して分不相応の要求ではない。ひっきょう、私たち作家は誰もが現実世界を丁寧に観察し、自分なりに消化した上で作品に落としこんでいるはずだ。クィアのような周縁化された人々を描く時も、それをきちんとやってほしいというだけの話である。現実世界の偏見と固定観念を再生産するだけの表象は、書き手の怠惰さを如実に表している。

 同時に、多様な書き手を育成するのも大事だ。多かれ少なかれ、書き手の表現はその経験やバックグラウンドから影響を受ける。だからこそ、多様なバックグラウンドの書き手が増えれば増えるほど、文学の世界もよりど豊饒なものになるのだ。


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