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李琴峰新刊『肉を脱ぐ』試し読み

 ※この記事は、2023年11月1日に刊行された李琴峰の新刊『肉を脱ぐ』(筑摩書房)の試し読みです。

 ■Amazonページ:https://www.amazon.co.jp/dp/4480805141

 湯船に浸かると、髪の毛先、乳房の先端、そして全身の毛穴から粉末くらいの小さな粒子がぽこぽこと浮かび上がり、お湯の中で広がっていく。かじかんで寒暖の区別がつかなくなりかけていた手足は、次第に温かいという知覚を取り戻していく。

 鼻の下ぎりぎりまで顔をお湯の中に浸け、冷えていた体表温度が上がっていく感覚を味わう。細胞が復活している。デスクワークで凝っていた肩と腰、パンプスで痛めた足と脹脛を中心に、角砂糖がお湯に溶けるように、身体にこびりついた重さが少しずつ溶け出して消えていくような痛気持ち良さを覚える。血管が広がり、血の流れがどくどくと加速する音まで聞こえてきそうだ。押し上げる浮力に抵抗して更に身体を沈め、目の下までお湯に顔を浸し、鼻から空気を押し出してみる。ポコポコポコッと、空気が気泡となって水面で弾け、飛び上がるしぶきが目に沁みる。入浴剤の柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。

 生きている感じがした。その感じにうんざりする。
 声を出して、溜息を吐いてみる。湯気が立ち昇る狭い浴室の中で、溜息は暫く木霊した。透明なお湯の中で、髪の毛は水草のようにゆっくり揺れている。黒いから水草というよりひじきに近い。海の中のひじきも黒いのかな? 食卓に出される時みたいに。毛先や身体から溶け出す無数の粒子が水面に揺蕩う。これは身体についている細かいゴミや埃なのか、代謝された老廃物なのか、それともただの気泡なのか。あるいはその全部が含まれているかもしれない。

 この現象を小説に使えないか考えてみた。何かメタファーや象徴的な意味を与えれば使えるかもしれない。例えば、自我だ。身体から溶け出す無数の微粒子、それはばらばらになった自我が溶け出していくみたいだ――次の瞬間、心の中でツッコミが入った。何が「自我が溶け出していく」だ。臭過ぎる。臭くて編集者の宮崎さんの声が頭に浮かびそうだ。「自我とか、欲望とか、そういう直接的な言葉を使うんじゃなくて、もっと丁寧に描写した方がいい」と。

 でも、もしそれが代謝された老廃物なら、「自我」と言っても別に間違いではない、とも思う。それらはまさしく過去の自分の一部なのだから。蝉や蛇の脱皮みたいに、人間だって少しずつ過去の自分を脱ぎ捨てながら日々生まれ変わる。

 思い付きで太ももの肌を擦(こす)ってみる。すると、確かな手応えとともに消しゴムのカスの形をした垢が肌を離れて水面に浮かび上がる。ついさっきまで自分の身体の一部だったものが不要なゴミとなってこの身体を置き去りにした。その事実に何となく快感を覚え、肌を擦り続けていると、太もも、膝頭、脛、踝(くるぶし)のくぼみ、肩、腕、手首、擦れば擦るほど消しゴムのカスが増えていく。このまま不要な部分を自分から剥がしていき、身体が丸ごと消えてくれればいいのに、とぼんやり考える。

 剥がされた身体の残滓に囲まれるとどことなく気持ち悪いので、お風呂を上がることにした。身体に付着した垢をシャワーで洗い流し、浴槽のゴム栓を抜き取ると、自分自身の欠片がお湯とともに排水口の闇に吸い込まれていく。

 浴室を出た瞬間から、温まった身体が急速に冷えていく。踝から脹脛にかけての鈍い疼きが後を引いていて、肩も重石が乗っかっているように怠い。お風呂に入っているあいだ一時的に治まっていた頭痛がまた戻ってきた。眼鏡をかけると視界が解像度を上げたが、グラスについている埃と指紋の脂汚れが私と世界の間で揺らめいており、気になって仕方がない。身体を拭いて部屋着を着て、窓のカーテンを開ける。街灯の薄明かりに照らされる夜の底に、降り頻る雪がしんしんと積もっていく。窓ガラスに触れると、指先からひんやりした感触が伝わる。凍える外気が部屋に漏れて入ってくる。お風呂から出てきたばかりなのに、足はもう冷たくなっている。座椅子に座ると、腰が軋む微かな音が鳴る。乾燥した肌がつっぱり、むずむずと痒みを覚える。全てにうんざりする。

 身体がもたらす快と不快は決して釣り合うことはない。何とかして快を求めようとしても、不快は一時的に覆い隠されただけで、すぐにまた戻ってくる。生きている限り延々と繰り返される、終わりのないいたちごっこ。

 化粧水と乳液を塗るのが億劫なのでやめた。髪の毛もそのまま自然乾燥に任せた。どうせいたちごっこになるのだから、身体の世話にかける手間と時間を必要最小限に留めたい。湯船に浸かるのは何年ぶりだろう。大雪でも降っていなければそんな気にはならなかったはずだ。入浴剤というものはたぶん、生まれて初めて使った。その入浴剤はいつだったか、ラブホテルから持ち帰ったものだ。

 スマホを手に取り指紋認証でロックを解除し、青い鳥のアイコンでツイッターアプリを立ち上げ、虫眼鏡の図形と検索ボックスを順にタップし、表示された検索履歴の一番上にある「柳佳夜(やなぎかよ)」を親指で触れてから素早く画面を左へ払い、「最新」の検索結果を表示させる。この一連の動きはとっくに自動化されていて、二秒もかからない。

 エゴサーチの結果は二十分前と変わらない。インターネットの海から掬い上げられた、私のペンネームを含む最新のツイートは一か月前のものだった。

〈これから図書館で「群晶」読むぞ。まず柳佳夜「鳥殺し」から。〉

 読んだ感想ならともかく、これから読む宣言をわざわざインターネットで書き込む意味が分からない。しかもなんで図書館なんだ雑誌くらい買ったら。大体、このアカウントは読む宣言をしただけで読了報告も読後の感想も投稿していない。アカウントのプロフィール画面に入って三か月分のツイートを遡ったことがある。ほとんどが食事の写真や他愛のない独り言で、文芸誌や本に言及しているのはあの一件だけ。本当に読んでいるのかな。読んだなら何か言ったらどうだ。何か言う価値もないほど私の小説は下手くそな代物なのか。

 ツテを頼って出版社に小説を持ち込んだのは、一年三か月前のことだった。大学時代に一緒に小説の同人誌を作っていた友達が純文学の新人賞を受賞して作家デビューし、直後に芥川賞候補になった。彼女にお願いして、文芸誌の編集者に小説を渡してもらった。空を飛べない自分の身体を疎ましく思う少年が鳥を羨むあまり、鳥を捕まえて殺すことを繰り返すという内容の、一〇〇枚くらいの短編だ。持ち込んでから半年の間、編集者からは何の返事もなかった。友達に頼んで、何回か状況を確認してもらった。デビュー作で芥川賞候補になった期待の新星の頼みを無下にできなかったのか、半年後に宮崎さんという編集者から電話がかかってきた。今のままでは難しいが、大幅に手を入れたら掲載はできるかもしれないとのこと。それから六回にわたって改稿をし、ようやく『群晶』に載せてもらえたのは二か月前のことだった。

 掲載号の発売日ははやる気持ちを抑えきれず、定時で仕事を切り上げ、書店に駆け込んで『群晶』を三冊購入した。「こちらの雑誌は全て同じ号ですが、宜しいですか?」とレジで店員に確認され、私の小説が載っているんです、と言いたい気持ちを押し殺して、「はい、大丈夫です」とだけ返事した。帰りの電車の中で、小説のタイトルと自分のペンネームが載っている目次をしみじみ眺めながら、顔の筋肉が言うことを聞かずついにやけてしまった。

 発売から数日後、エゴサーチをするとぱらぱらと小説の感想が数件ヒットした。〈面白かった〉〈分かるー〉〈これ、おれの好きなやつかも〉といった短い感想ばかりだが、それでも私が書いたものが確かに誰かに届いていると知り、安心感とともに喜びを感じた。身体の重さに縛られている佐藤慶子としての自分とは違う、実体も持たず、言葉の中にしか存在しないもう一人の自分がそこにいる。そう考えると救われる気分になった。

 これで念願の作家デビューを果たした、そう思いきや、エゴサで感想がヒットできたのはほんの最初の頃だけで、三週間経つとほとんど何も引っかからなくなった。新聞の文芸時評欄では取り上げられず、『文学会』の「新人小説月評」コラムでの言及も〈鳥を殺したいほど自らの身体を憎む主人公の感情は実感を伴わって伝わってこない〉という一文のみ。二作目を宮崎さんに送ったが〈少しお時間を頂きます〉という素っ気ない一文が届いたきり何の連絡もないし、他の雑誌から仕事の依頼が来ることもなかった。エゴサの結果も一か月前のもので止まっている。

 どうせ新しい言及なんてありやしないと知りながら、それでもエゴサをしてしまう。息を吐くように、もう一人の自分の名前を検索してしまう。検索の度に焦りとともに軽い絶望を覚えるが、どうしてもエゴサはやめられない。これがもう一人の自分の存在を確認する唯一の方法なのだから。

 ツイッターで「記録的大雪」がトレンドインしている。〈積雪一〇センチ〉〈道路通行止め〉〈鉄道運休〉といった文字列がネットニュースの見出しに躍り出る。一時間前まで自分もその雪のせいで足止めを食らい、遅れに遅れたすし詰めの満員電車に乗り込もうとする人たちに揉まれ、何時間も辛抱してようやく帰ってこられたのに、いざ家に入るとそれらのニュースの見出しが悉く他人事のように映る。つくづく、身体に縛られていると痛感する。五感の内側にあるものと外側にあるものとで、世界が真っ二つに分断されている。

 鏡を覗き込むと、眼鏡をかけ、そばかすが散らかっているふっくらとした顔がそこにある。垂れ下がった目尻は今にも泣き出しそうに見えて、乾いた薄い唇も不機嫌そうに映る。眼鏡を外すと、目の下のクマや、長年眼鏡をかけているせいでできた瞼のくぼみ、そして鼻筋についている眼鏡の跡が目立って見える。自分の顔を見るとうんざりして目を逸らしたくなる。顔だけではない。身体を持つこと自体にうんざりする。

 大雪への反応を暫く読み漁っていると飽きてきて、また反射的に指先が動き出し、エゴサしようとする。その時、優(ゆう)香(か)ちゃんからのLINEメッセージがスマホ画面にポップアップ表示された。

〈けいちゃん、無事帰れた? こっちは無事家に着いたよー〉

 同期の服部優香とは就活していた時期に、新宿二丁目のバーで知り合った。ちょうど彼女も就活していたので、二人でよく情報交換しながら励まし合った。その後、二人とも大手化粧品メーカーである今の会社に受かり、私は人事部に、彼女は総務部に配属され、入社五年目の今でもずっと仲良くしている。彼女は実は本名が服部祐(ゆう)樹(き)で、戸籍上が男性であることは、入社二年目の時カミングアウトされて知った。あまりにも自然に女性として生活していたから、そんな可能性は過りもしなかった。彼女は性別が理由で高校時代にいじめに遭って不登校となった時期があるので、同期とはいえ年齢は私より上だ。今は性別変更のための手術費用を貯めているという。

〈もうお風呂入ってきたよー〉

 と、アニメキャラクターがOKサインをしているスタンプを添えて送り返す。今は就活シーズンなので、今日は私も優香ちゃんも合同企業説明会に駆り出されていた。化粧品メーカーなので来てくれた就活生の九割が女性で、みな判で押したような真っ黒なリクルートスーツに身を包み、髪を一つに結い上げ、手にノートを持ち、こちらのプレゼンを聞きながら神妙な顔で頷いていた。「弊社は化粧品メーカーだと思われがちですが、実は化粧品だけでなく、レストランやヘルスケアなど、幅広い事業を展開しておりまして……」就活生の真剣な表情を見ると、話しているこちらが空々しくなる。自分の話している内容について本当は何一つ分かっていない。人事部所属とはいえ、私は採用担当ではない。女性社員が説明会に出た方が会社の女性活躍の成果をアピールできるという理由で駆り出され、採用担当チームから渡されたプレゼン資料とスクリプトを、ただテープレコーダーのように繰り返しているだけ。幅広い事業を展開しているかもしれないがその多くは不採算部門で、売上の九割方は化粧品に依存している、というのは内緒で、自社の化粧品を私はほとんど使ったことがない、ということも口が裂けても言えない。来てくれた女子学生はほとんどばっちりメイクをしている。中には志望度をアピールするためにわざわざうちの化粧品を購入して使っている子もいるかもしれない。それが全くアピールにならないという事実が気の毒で仕方がない。彼女たちは一体何歳の時から、どんな状況で、あるいはどんな必要に迫られて、誰に教わってそんな化粧技術を身につけたのだろう。普段ほとんどメイクしないから不思議に思ってしまう。真冬にもかかわらず、彼女たちの半分以上がタイトスカートを穿いていた。スカートの裾から伸びた、ストッキングに包まれ引き締まっている彼女たちの両足を見ていると、ロングパンツを穿いているこちらが申し訳なくなる。

〈よかったー。身体を暖かくしてゆっくり休んでねー〉

 優香ちゃんの方がずっと私より楽しんでいるように見える。仕事を、化粧を、おしゃれを、そして女性としての生活を私より何倍も楽しんでいるその姿を、時々疎ましく思う。自分を大事にすること。身体を労わること。誰かに見せるための顔を作ること。それらのことを何の疑問もなくこなせているように見える。今の会社だって、私はたまたま引っかかったところに入ってみただけの気持ちだが、彼女にとっては第一志望だ。

〈ありがとー。ゆうかちゃんもゆっくり休んでね〉

 と、アニメキャラクターがお布団に入って「Zzz」しているスタンプとともに送り返す。すると、同じ構図のスタンプが返ってくる。私はLINEを閉じ、ツイッターに戻り、慣れた手順でもう一度エゴサをかけた。身体を持たない精神だけの自分の存在証明が新たに引っかかることを願って。

 最新の検索結果は依然として〈これから図書館で「群晶」読むぞ〉だった。

(続きは書籍で)


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