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毒親に育てられた子供の頃

がんじからめ。
その言葉につきない。
どこにも行けず、何もできない。

私の幼少期のいい思い出は黒い絵の具で塗りつぶされている。
後の毒親の行動がすべてのいい思い出を塗り替えてしまったのだ。

いや、もともといい思い出なんかなかったのかもしれない。
昔の写真には人の良さそうに見える両親と私。決まって私は真顔かふざけている。
けれどどれも思い出せないのだ。
記憶にない過去がそこにある。

モラスハラスメントなどという言葉がかけらもない時代、それは亭主関白の一言で終わっていた。
父親は母親に命令ばかりしていて、母親はいつも文句を言わず従う奴隷だった。
父親はアルコールを飲んでは周りに不満をぶつけ当たり散らし、絡んでくる非常に厄介な人だ。
母がまずはターゲットになった。
しょっちゅう繰り広げられる喧嘩に私は耳を塞いで逃げる。
気配を押し殺していなければこちらがひどい目にあう。

私はその父親が大嫌いだった。
うるさい。
お前の不満をこちらに聞かせるな。
そんな表情や目線で少しでも表してしまえばそこからは私がターゲットになる。
「なんだその目付きは気に入らない!」
少しでも反論しようものなら更に酷いこと──物が飛んでくる。
「誰のお陰で飯が食えると思ってるんだ!嫌ならお前が稼げ!」
その当時、私は義務教育中でバイトすらできない立場だ。
それをわかっていないはずはない。
ただ当たり散らしたいだけなのだ。
実に理不尽きわまりない。

「そんな気持ち悪い化粧で出歩くな!」
普通のメイクにこの発言だ。
反論するとティッシュ箱が頭に飛んできた。
角が当たって痛かったけれど、謝りもせず母親も何も言ってはくれなかった。

そう、母親こそ最もやっかいな相手だったのだ。
母親は父親の前では気配を消し私をスケープゴートにした。
父親がいなくなれば母親は父親への不満を口にし、私の感情や痛みなどを知ることもなく生きていた。
私はその愚痴を聞きながら腸が煮えくりかえるのを必死に抑えていた。
そうしなければ母親からも暴力を受けるかもしれない。
私に逃げ場などなかった。
一般的な"母親"とは明らかに違うそれは私の時間へも侵食してきた。

過干渉、という言葉もつい最近でた言葉だ。
出掛けるときは誰とどこに行き、何時までに帰れ。
中高生にそんな小学生のようなことを言う。
気持ち悪くていつも嘘をついていた。
当然泊まりなど許されようはずもない。

ただ一度だけ友達の家へ泊まった際のことだ。
まるで監視でもするかのごとく、その子の家へお礼と称して"本当にそこにいるか"を調べてくる。
随分と心配性なお母さんだね、と笑う友達の顔になんとも言えない顔で笑ってごまかした。

やがて恋をし、彼氏ができた時も必死に隠した。
どうせ余計に縛られるだけだから。
門限は高校生にもなって八時かそこら──いやもっと早かったかもしれない。
隠れてデートをするために友達と遊ぶふりをし、貰った指輪やプレゼントは徹底的に隠した。
電話も家の外、それこそ大通りへでなければ携帯で電話をすることも怖かった。

しかし隠し通せるわけもなく、私は絶望した。
別れろとまでは言われないだけマシだった。
気持ちが悪いことに"行為"のことに口を出してくる母親に嫌悪した。
私が産まれたその"行為"を気持ち悪いといい制限するなんと生々しい会話だろうか?
吐き気のすることばかり口にする母親もいつしか嫌いになっていた。

オールナイトで遊ぶ友達との差は開いていき、彼氏の存在も母親と相談できると言った友達との違いに愕然としたことを覚えている。
"家は異常だ"と常々感じていた私はそれからまたもや嘘を嘘で塗りたくる人生を歩んでいくことになる。

私のした過ちについてはまた今度書こうと思う。

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