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人間と高次元のニュアンスの違い

「身を委ねる」について、バシャールさんとエイブラハム(アシュタール)さんの両方が答えてくれることで、表現は違えど共通する要素から理解が得られます。

これだけでなく改めて私が思うことは、私たち人間のニュアンスと、高次元の存在のニュアンスは違う、と感じます。


例えば、宇宙にオーダーすることもニュアンスが違くなる結果になります。
意識で現実を創造しているけど、日常のほんの一瞬だけ意識しても、残りの99%がその意識でなければ、その99%の意識の通りになるでしょう。
何を思ったかというより、どんな人間でどんな存在かの通りになるでしょう。

私たちから見ると、顕在意識が"私の意識"です。
一方、高次元から見たら、私の顕在意識と潜在意識と魂意識の総体が、"私の意識"なのでしょう。
だから私がいくら何かの意識になっても、魂意識がそうなってなかったら創造が自分の意図通りにはならないでしょう。

これが「ワクワクで現実を創る」ことや、「引き寄せの法則」が、そういう意味ではその通りですが、その通りにほとんどの人がならない原因なのだと思うのです。
一部が現実化して、別なのは現実化しない、しかもそれを感じるのは一部の意識である顕在意識だけで意識しています。

つまり、どういう仕組みなのかを考え、どう思えばいいのかではなく、その人自身が存在としてそうなれているか、顕在意識と潜在意識と魂意識の総体がそうなっているかになります。
なので私のよくいう表現は、方法ではなく在り方になると感じます。


また意識の捉え方にもニュアンスの違いがあると思います。
例えば日常の中でも私たちは様々な意識があります。
駅に向かおうとして歩く意識と、心臓が動いて健康に歩く血流が身体が機能させる意識と、歩く途中で宇宙にオーダーしていた思いがけない閃きや出会いなど起きた現実を創造する意識は、高次元から見たら全部同じことだとしているのでしょう。

しかし、私たちは駅に向かう行動は当たり前、心臓が動くのは無意識、宇宙オーダーの実現だけ奇跡的な意識創造だと認識してしまってます。
だから、私たちは「身を委ねる」ことを、ほんの一部の意識を宇宙に任せているようでいて、もっと総体とした在り方が「委ねる」という地球言語になると考えます。


私の言語化が拙くなってます。
これこそニュアンスが違ってしまいます。

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