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小説を読む堕落とライトノベルの生死かけた拷問

 小説を読むことは堕落であると思われてました。明治の頃です。
かつての文豪も、当時はただの流行りの作家。崇高な芸術性など皆無で、ただの作り話を楽しむよう能無しが読むもの扱いでした。
夢中になった人が社会で上の立場になり、小説が王道となりました。

戦後、子供たちはマンガに夢中になりました。ポンチ絵だと馬鹿にし、活字の純文学も読めない若者が増え日本は終わりだと言われました。

ライトノベルが流行りだし、こんなものは小説ではないと言われ、オタクが変な日本語を使った脳が思考停止してる、もう誰もちゃんとした文章が読めないと言われました。

ネットが普及し、多くの人がブログなどで発信しそれを読み、出版界は斜陽して、推敲した文や物語などなく、頭には残らないものだけで理解する力がなくなるとされました。

Twitterなど、つぶやき系が流行し、短い口語でしか文字が読めず、ただの即興で文章がない時代になったと言われました。

Youtubeで解説系など増え、文字を読むことさえもできない人が増えました。

遂にショート動画、ストーリーなど、映像も10分なんて見てられない人が増えました。


すごいところまできてます。
note記事なんて、読んでるだけでインテリ階層なんじゃないですか?。今の若い人の多くは記事の文字を読んで理解するなんて、かなりの負担なんでしょうよ。
純文学なんて、医学論文読むような人を選ぶレベルのモノで、娯楽と言うより拷問かもしれませんね。
今回書くから人気ライトノベルのタイトル見たら、余命とか、天国へとか、この世界から消えるとか、生死をかけた話ばかりで、どこがライトなのか、ヘビーノベルじゃないかって感じです。
簡単に余命とか言って、命がライトなノベルかも。


大量の活字を理解する時代から、短い動画さえも見れない時代に。
これは進化ではなく退化なのでしょうか?
うーん、実はものすごい進化かもしれません。
短い動画どころか、これからは一瞬のテレパシーで、情報は凝縮されたエネルギーとしてやり取りするのかもしれません。
起承転結があって論理的に結論に結びつく文章なぞ、なんて原始的な仕組みなんでしょう。
そんな面倒臭い理論なんか古典力学的です。
これからは量子論のような全ての情報が内包しているエネルギーを交換し、瞬時に必要な部分だけ理解し、余計な言葉のやりとりもなくなるのでしょう。これは進化です。

ショート動画を見て楽しんでる若造は、進化の先端を走る賢者です。
そう思えない私は、退化してる愚者ですね。


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