食われる〜遠野遥の小説、「教育」を中心に〜

 遠野遥は女だと思った。
 『文藝』、文藝賞発表号の表紙に「かか」宇佐見りんと並んだその名前を見たときのことだ。「改良」遠野遥。それだけ見て、これは間違いなく変な小説で、そして著者はなんとなく小山田浩子みたいな感じの雰囲気の女性だと思った。興味をもってTwitterで調べると、アカウントがあった。目元が髪で隠れたイケメン、好きなタレントの画像かと思ったら本人だった。男だ。遠野遥は男だった。
 なんで女性だと思い込んだのだろうと不思議に思ったが別に不思議ではない。「遥(はるか)」は、どちらかというと女性に多い名前だ。それを見て女性だと思うのは無理もない。しかし僕には同じ名前の男性の知人がいる。しかもイケメンだ。そしてどうしようもないやつだった。ドイツ語の授業はほとんど来ていなかった。酔って池に飛び込んで奥歯を折った。ゼミの授業にほとんど何も準備せずにやって来ては、細身なのにやたらよく通る声で愚痴と泣き言を言っていた。駅前の服屋でバイトをしていて、客の葬儀屋の女と寝ていた。看護師はエロいというのは有名な話だが、葬儀屋もエロいのだろうか。死に近いということが共通している。しかし看護師と葬儀屋で死に近いのはどちらだろうか。葬儀屋と死の距離は一定に思える。しかし看護師はどうだろう。研究が待たれる。
 そんなわけで僕は遠野遥に興味をもった。よく分からないが、何か妖しい魅力がある。ほとんど前情報のない状態で、僕は『改良』を読んだ。そして困惑した。何がしたいんだ、これは?まずは文体が気になった。今まで読んだことのない文体だ。乾いた、淡々とした…いや「乾いた」というと、前は湿ってたみたいだけど、もはやそうでもないなんかデジタルな感じ?絶対原稿用紙には書いてないよなこれ、っていう感じ。説明になっていないか。そしてその文体が内容に噛み合っていない。語り手は男性で、女装をして美しくなりたいと思っている。しかしなぜそこまで美しさに執着するのかが全く分からない。目的だけが幽霊のように浮かんでいる。執着という強い感情を、こんな無感情な文体で書くのはなぜなのか、分からなかった。そして怖かった。よく分からないものは怖かった。
 その後、後に芥川賞を受賞するデビュー二作目『破局』が出る。それを読んで僕は唸った。相変わらずの文体だったが、やっと何をしたかったかが分かった気がした。違和感こそが鍵だったのだ。今回の語り手も男性で、就職を控えた大学四年生、ラグビー部のOBである。肉が好きでセックスが好き。普通の大学生だ。そして自分をものすごく客観視している。ある時なぜか涙が出てきて悲しくなってきたが、悲しくなる理由が思い当たらない、理由がないということは悲しくない、と思って悲しくなくなったりする。因果関係に強いこだわりがあり、こうだからこう、というルールに基づいて行動し、さらには感情もその通りにコントロールされる。この男は異常だろうか。それを判断するのは難しいが、少なくとも小説上では、おそらくそのせいでこの男の生活は少しずつ軋み始める。生真面目に自分の秩序を守って来たはずなのに、最後には「破局」を迎える。登場人物、ストーリー、文体とが微妙に噛み合わない違和感が動力となって、クライマックスへと転がり込むのが圧巻だった。遠野遥という作家が、確かな成長・発展を遂げたことが分かった。例えるなら、骨組みだけだった体にしっかりと肉がついてたくましくなったようだ。ここからどのようにその肉体がジャンプしていくのか、とても楽しみに思った。
 そして、最新作「教育」により僕の期待は見事に裏切られた。
 「教育」は、『文藝』2021秋号に掲載された。「教育」というタイトルから想像できるように、学校を舞台にした青春小説である。しかし学校を舞台にした青春小説に「教育」というタイトルをつける小説家はあまりいないだろう。この小説の語り手「私」も男性である。全寮制の学校のようなところに暮らしている。「超能力」を育成するためと思われる学校である。この学校ではそこら中に監視カメラが仕掛けられており、生徒は厳重な監視体制のもとで生活している。そしてその学校では1日3回以上のオーガズムが推奨されており、そのために学校からポルノ・ビデオが生徒に配布されている。また生徒同士のセックスも許可されている。どういうことだろう。エロ漫画か?
 しかしこれは小説である。いや小説なのか?この小説は今までとは違う意味でおかしい。文体はこれまでの二作とあまり変わらない。そして長さはこれまでの中で最も長い。原稿用紙300枚である。しかしこの小説は、小説の枠をかなりはみ出している。
 まずこの小説には挿話が非常に多い。「私」は翻訳部(なんだそれ)に所属していて、そこで「ヴェロキラプトル」という外国の小説を翻訳している。その小説の内容が、たびたび作中に挿入される。ヴェロキラプトルという恐竜がサッカー勝負を仕掛けてくる話だ。また、催眠部(なんだそれ)に所属している下級生から催眠をかけられた「私」が体験する幻想がやたらに長く、それも二度挿入される。お化け屋敷で何十年もバイトする女性の話、恋人と遊園地でかくれんぼする女性の話。また、主人公の友人「真夏」が脚本を担当した演劇が上演されるシーンも長く挿入される。苺人間の襲撃の話だ。男性器もたびたび女性器に挿入される。挿話挿話、そわそわ。とにかく、本筋に全く関係のない話が、それもかなり長めに、繰り返し挿入されるのだ。そしてその挿話が変に読みごたえがありかつ不気味なものばかりだ。ボツ小説のアイデアを適当に突っ込んだのか?これは小説を破綻させかねない危険な行為だと思う。そして現にこの小説のバランスはかなり壊れている。異様である。
 そしてもう一つ、この小説を危うくしているのは、物語のもつ寓話性である。というよりこれはほとんど寓話そのものである。外の世界から隔離された空間で、限られた知識のみを与えられ、盲目的に与えられた目的を追いかける、ほとんど洗脳状態にある生徒たちの姿は、現代を生きる我々の寓話に、「明らかに」見える。そこがあまりに透けている。どれだけオーガズムだの、ポルノ・ビデオだのという突飛な道具立てを用いても、その寓話性は隠せない。というより隠す気もないように見える。つまり小説世界にリアリティがない。小説世界を、よりリアルに、追体験できるかのように描けば、その物語のもつ寓話性も気にならないかもしれないが、この小説はそう書いていない。スケスケである。そしてそれは、意図的なものなのだろう。しかしそれが何を意図しているのかは分からない。
 先ほど少し述べた通り、遠野遥の小説は、骨組みである「改良」、肉付けされたくましくなった「破局」、という順に発展してきた。そして、僕はある程度次の作品がどう進化するかを予期していたつもりだった。しかしその予想は大きく外れた。鍛え上げられた肉体は、大きくジャンプするどころか膝を突き崩れ落ち、その内臓を食い破って訳の分からない気持ちの悪い触手がたくさん伸びてきた。小説が何かに食われている。いったい何が起こっているのか。遠野遥は小説をどうしようというのか。分からないが、少なくとも彼のやろうとしていることは、「小説」の枠組み自体を変えてしまうような行為である気がする。今後どうなっているのか僕には全く予測できない。ちょっと怖い。しかもイケメンだ。本当に何をするのか分からないのはイケメンである。それは僕の人生における二人の遥くんが証明してくれている。女を食う遥くんと(いや、あれは食われていたのか?)小説を食う遥くん。遥くんたち、頑張ってくれ。どうなっても僕は応援しているよ。

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