愛と勝利ー『死の棘』、『狂うひと 「死の棘」の妻・島尾ミホ』を読んでー

 引用する。

 「ノモトとかネモトとかいう男を知っているか。自動車の運転手を知っているか。なんて言ったっけ、そうそうツムラという大学生を知っているか。あなたはまぬけだから、なんにも知らないだろう。みんなあいつの男の名前だよ。まだまだ教えてやろうか」
 とほかにいろいろな男の名前を挙げるから、私は妻が刑事に見えてきて、
 「こわいよう、こわいよう。手錠をはめられるう!助けてください、手錠をはめられるう!」
 と大きな声を出した。
 「ばかなことを言いなさんな」
 と妻がおさえつけるように声をころして言いながら私の手首をつかまえていると、廊下の縁先のところに、マヤが近所のこどもを三、四人連れてきて、
 「フラネ、フラネ、アタチノオトウシャン、キチガイデショ」
 と言っている。にこにこ笑って、まるで威張っているように見えた。
 「こどもは見るんじゃない!」
 と妻がどなったら、こどもらはびっくりして逃げて行った。にぎやかな土を踏む足音がからだに伝わってくるようだ。
     (新潮文庫『死の棘』 p.193より)

 悲惨、壮絶、滑稽、夫婦、子供、長編『死の棘』を構成する重要な要素が、短いながらも凝縮されたワンシーンだと思う。
 島尾敏雄の長編小説『死の棘』は著者の実体験が元になっている。夫である小説家の「トシオ」が、10年にわたって家庭を顧みず、外に女を作り外泊を繰り返した結果、妻「ミホ」は精神に異常をきたす。この小説は、その夫婦と子供たちとの、地獄のような日々を綴ったものである。
 まず特筆すべきはその長さである。新潮文庫版では600ページを超える。長編小説の中でも長い部類に入るだろう。
 次に構成。はっきり言って「小説」として読みやすい構成ではない。先ほど引用したような夫婦の諍いが延々と続く。妻の「発作」、詰問、罵倒、掴み合い、次第に「きちがいのふり」を覚える夫、様々に巻き込まれる子供たち、束の間の平安、そしてまた「発作」…。ずっと同じことの繰り返しである。そして小説は、妻ミホが精神病院の閉鎖病棟に入院するところで唐突に「終わる」。このあっけなさも大きな特徴である。
 最後に、この小説が事実に基づいて書かれたということ。僕が『死の棘』を読んだ段階では、それがどの程度なのか知らなかった。虚実を織り交ぜているのか、それともほとんど事実なのか。
 
          *

 人はこの小説をどう読むのか。僕はとにかく圧倒された。今まで小説で感じたことがない衝撃を受けた。少なくとも僕はこの小説を「まともに」受け止めた。長年にわたる裏切りが、人をどんなに狂わせてしまうのか。その現実を、恐ろしさを腹の底で感じた。僕には恋人がいるので、それも読み方に影響を与えたと思う。
 そしてこの小説の圧倒的なリアリティを生み出す作者に僕は戦慄した。こんなものが書けるなんておかしい。「トシオ」の一人称で話は進む。彼が見たもの、感じたこと、それらが淡々とかつ綿密な描写で書き連ねられ、まるで皮膚にへばりついてくるようである。自分もそこにいるかのような不安を感じる。これを600ページも書ける作者が分からない。とても正気とは思えないくらいに正気を保っている。本当に人間わざなのか。
 僕は恐怖した。この小説に、作者に。
 気づいた。解説を読んでみよう。僕の混乱を、恐怖を、解きほぐしてくれるかもしれない。
 ところが新潮文庫版に載っている山本健吉の解説は僕をさらなる混迷へと導く。
 彼はその解説の中で、こんなことを言っている。

 するとこの、一見暗く、 きびしく、すさまじい世界は、反対に明るく、回癒と甦りへの感謝と、愛と勝利への讃歌に充ちているのだというべきであろう。…
     (新潮文庫『死の棘』 p.617より)

 「するとこの」の前は長かったので割愛したが、要するに、この小説が書かれたのは、夫婦が住まいを妻ミホの故郷である奄美に移した後、つまり彼女が「回癒」した後の、予後を静かに過ごしていた時期だからということであるらしい。
 また、ミホの嫉妬について、「不思議に古代の神話的な女たちに通う純真さがある。」としている。これも引用しようかと思ったが、日本神話の登場人物がたくさん出てきて漢字が難しかったので断念した。要約すると、日本神話では、「諸向き(もろむき)心」の男と、「直向き(ひたむき)心」の女が理想的男女とされている。「諸向き心」とは要は「色好み」ということで、古代では君主の徳目とされていたらしい。つまり「同時に、偏りなく、思いくまなく異性に対し、一人でも彼女たちを棄てたり、不幸に陥れたりすることのない男性」であるらしい。対して「直向き心」とは、そんな男たちに嫉妬する「一途な愛情」をもつ女たちの心であるらしい。ミホの嫉妬には、そのような「直向き心」に通じる古典的純真さがあるということらしい。そして、著者島尾敏雄は、そのような女性を、『「永遠に女性的なるもの」の本態を』描ききったらしい。
 らしいらしいを連発していることから察してほしいが、僕は全然納得しなかった。この部分以外にも、山本健吉は『死の棘』におけるミホについて「女の、すさまじいばかりの美しさ」と書くなど、やたらと神格化しているように思えた。またその前に引用した「愛と勝利への讃歌に…」の部分に至っては、「ハァ?」としか思えない。この小説を読んで、「愛と勝利への讃歌でしたねぇ!」なんて思う人がいるのか?あまりの衝撃に頭が混乱し、「ああ、そうか、日本神話の女性なんだ。純真無垢の神話的女性…そうだそうだ、そうに違いない。そして、愛アンド勝利。ブラーボ。えへへ、あはは」と無理やり自分を納得させているように、少なくとも解説を読んだ当初の僕には思えた。
 
          *

 僕はぜんぜん『死の棘』が分からなくなったので、別の本を読むことにした。『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(以下『狂うひと』とする)である。
 この本は、『死の棘』の最重要人物であり著者の妻、島尾ミホの伝記である。自伝ではない。著者はノンフィクション作家の梯久美子である。
 『死の棘』を読んで最も印象に残るのはやはり妻ミホのすさまじい狂いっぷりである。そのミホについての伝記、絶対に面白いに決まっている。これもまた新潮文庫で、しかも900ページ以上という『死の棘』を超えるボリュームである。これだけのものを読めば、『死の棘』のことがもっとよく分かるかもしれない。
 僕は読んだ、そして死んだ。
 『死の棘』も、島尾敏雄も、島尾ミホも、僕の手には負えない。
 最初この文章は、『狂うひと』を読んで、さらに深まった僕の『死の棘』への理解について書こうと思っていたがそんなことはできないし、やる意味もないのだ。だって『狂うひと』を読めばいいじゃないか。
 『狂うひと』にあったのは、小説に生涯を捧げた夫と、夫に生涯を捧げた妻の(これは妻と夫を入れ替えても成り立つかもしれない)、壮絶な記録であった。こんなところに簡単にまとめることはできない。僕に言えるのは、『死の棘』は敏雄とミホが人生を賭して完成させた小説であり、敏雄もミホもある意味文学という魔物に魅せられた「狂うひと」であったということだ。
 僕は『死の棘』を読んで、「書くひと」島尾に恐怖した。山本健吉は「書かれる人」ミホを畏怖した。それはどちらも正しかった。この小説は「書く」と「書かれる」の正気と狂気のせめぎ合いかつ純度100パーセントの正気もしくは狂気なのだ。何を言っているのだ。つまりどちらも怖すぎるのだ。敏雄もミホも、にんげんわざでないことをやってのけた。
 『狂うひと』にあったのは、「書くこと」と「書かれること」のおそろしさだ。能動としての「書く」、受動としての「書かれる」、それは簡単に反転する。「書かれること」で夫を支配したミホ、「書くこと」に飲まれた敏雄。  『狂うひと』にあったのは言葉の邪悪さだ。言葉は人間の魂を吸うのかもしれない。言霊というが、その魂はどこから持ってきたものなのか?人が言葉を生かしているのか、言葉が生かしているのか?だから逆に言えば、人は言葉に命を吸われることもあるのかもしれない。
 『狂うひと』にあったのは、正しさで測れるものなんてほとんどないということだ。
 感想文として成り立っていない。なんとかしなければならない。まとめられるか。『死の棘』での夫婦の闘いは、夫対妻の闘いでもあり、夫と妻の共闘でもあった。何との闘いかというと、文学との、言葉との闘いだった。結局勝ったのは言葉だった。残ったのは作品であり、2人の肉体と精神は最後までそれに奉仕した。その意味で、『死の棘』は「愛と勝利への讃歌」であったかもしれない。誰が歌っているのかは、知らん。

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