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for something happy - 私が思う「幸せを決める最後の1ピース」

太平洋に浮かぶ、小さな島国「フィジー共和国」。米ギャラップ社「世界幸福度調査」によれば、この国の国民は、世界で最も、主観的に「幸せ」を感じている人たちだそうです。

そんなフィジーで、3か月の長い長い人生の夏休みを過ごし、彼らの「幸せ」の秘訣をバッチリつかんできた!かというと、そんなこともなく、ただひたすら、人懐っこいフィジー人たちの深い深いホスピタリティに、ゆりかごのように揺られ、太くてやわらかな腕の中に抱きしめられて、心地よい気分で帰路についたというのが本音のところです。


「幸せ」について、考えていました。

どうすれば私は幸せになれるのかしら、という文脈ではなく、どうすれば社会はもっと幸せになるだろうか、ということについて、です。

私たちは、自覚的であるにしろなきにしろ、自分以外の誰かの「幸せ」のために働いています。

今年の春に、これまで6年間お世話になった会社を退職し、これからどこでどうやって働いていこうか・・と自分の内側を顧みたとき、「私はこれから、誰の、どんな幸せのために働くのか」ということが、最も大きな「問い」としてありました。

「幸せの定義の違い、ただそれだけなんですよね」ーーーどんな会話の流れだったかは忘れてしまいましたが、尊敬する社会起業家の方が、ふと、こう呟いたことがありました。

社会起業家や、いわゆるソーシャルベンチャー(企業・団体)に勤める人たちは、特にこの、「誰をどう幸せにするか」ということに力点を置いて職務にあたっています。

それぞれに、それぞれの「幸せの定義」があり、これが幸せだ!と思い描く理想に向かっている。ある人が「健康であること」がいちばんの幸せだと思えば、介護や予防医療などの分野に取り組むでしょうし、またある人が「教育を受けること」が特に幸せと結びつきが深いと考えれば、貧困家庭に教育サービスを提供することに情熱を燃やすかもしれません。

(以前の職場ーーー株式会社マイファームでは、「自然と人との距離が近づけば、人はもっと幸せに過ごせる」という価値観のもとに、多くの人が集まっていました。私は、この理念に強く共感しています。人は、自然と切り離されては生きていけません。)

幸せの定義は、みんな違う。みんな違って、どれが正解ということはないはずです。


あなたは、何が「いちばんの幸せ」だと思いますか?

あなた自身にとって、そして、同じ社会に生きる多くの人にとって、「幸せを決める最後の1ピース」は、なんだと思いますか。

もし、「ほかのすべてが満たされていても、この1ピースが失われれば、幸せとは言えない」というような、「最後の1ピース」があるとしたらーーー。


私が思う「最後の1ピース」はーーー未だ、的確な日本語を見つけることができずにいるのですがーーー敢えて一言にまとめるとすれば、それは、「歴史的連続性」ではないか、と、考えています。


私は、大学で(酔狂なことに)日本史学を学んでいました。専攻は古代史で、卒業論文のテーマは「古代の音」。はるか昔に生きた人々が、どのような音を聞き、その音が、どのような精神世界を構築していたか、ということを研究していました。

歴史を学ぼうと考えたきっかけは、高校の修学旅行で、高千穂峡の「神楽(みかぐら)」と出会ったことでした。

しんと静まり返った中、舞い手の演者が、厳かにゆっくりと首をひねり、手をかかげ、足を抜き差し、シャン!と鳴る鈴の音の余韻が、あたりいっぱいに広がっていく。静寂という音が聞こえてくるようでした。

何百年、何千年と以前から、こうした伝統的な祭祀が執り行われ、何百年も前の時代に生きた誰かも、ここにいて、私と同じ音を聞いていたんだ、と、感じました。それは、「歴史とつながっている」という、心地よい実感でした。


私は、都心で生まれ育ちながら、(その反動もあって?)「田舎」「ふるさと」「地方」といったものに、強烈なあこがれを持ち続けてきました。

なぜこんなに心惹かれるのだろう、そして、「ふるさとをもたない私」はなぜいつも「どこかさみしい」と感じているのだろうーーーそんな自分の感情を、掘って掘ってディグり続けた結果、「歴史とつながっていないと、人は、さみしい」という、ひとつの結論に至りました。


もし、経済的にも、物質的にも、精神的にも、満たされていたとしてーーーそれでも、自分という存在が、まったく過去と切り離されていて、未来にも何も残さない、としたら、はたして人は、幸せを感じられるでしょうか。

逆を言えば、もし今が苦しい状況だとしても、自分の命が、過去の長い歴史の上に成り立っていて、未来に何か重要なバトンをつなぐ役割があると実感できていたとしたら?

私たちは、過去のルーツとつながりたいと思っているし、遠い未来のために貢献したいと思っている。過去から未来へ向かう流れの中に、自分の「いま」を置くことで、私はいま確かにここに、意味のある形で存在している、という、「幸せ」を感じられるのではないかと思うのです。


私が、長らく、地方への移住支援・就農支援(地方に移住して農業をはじめたいと考える方々のサポート)を仕事にしてきたのは、めぐまれた自然と共にあり、脈々と続く歴史・文化に根差して生きることが、いちばんハッピーな生き方!と、信じていたからです。(そして、今も信じています。)


歴史的連続性。

私が思う、「幸せの最後の1ピース」は、いまだひとつの「仮説」に過ぎません。これから先、「やっぱりこっちの方が大事だったわ」と、思うことがあるかもしれません。

それでも、これから先もずっと、自分の思う「幸せな社会」のために働いていきたいし、人生を賭けて、誰かの「幸せ」のために生きていたい、と思っています。

今年は、もう半年近く、「働く」ことから離れていました。ただそれは、「人生を休んでいた」ということでは、ありません。

100年先、200年先の未来に続く「いま」だからこそ、焦らなくてもいいし、同時に、一瞬一瞬が、閃光のように輝いてみえるのです。


あらあらかしこ

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