「美しさ」という恐ろしい測り

今、アメリカに留学中の大学四年。

私が留学している地域はモルモン教の信者がとても多い地域。
大学でも白人が7割で、多様性とは程遠い環境。

最近留学している人が多くて、よくインスタで彼らの楽しそうな様子を
目にする人も多いと思う。
みんな楽しそうに、いろんな肌の色の人と仲良くしている。
NYとか西海岸とかに留学している人がほとんどだ。
一人一人、肌の色や文化、価値観が違って、
それが当たり前に受け入れられている地域。

私は留学前、それが当たり前というか、そういう社会になって来ているんだな、
と思っていた。

でも実際、留学してから今までの感想を一言で言えば、
「楽しい!」
とかいうよりも、

「私ってアジア人なんだなあ、」
という一言に尽きる。

もちろん、楽しい。
新しいことがたくさんだし、刺激もたくさんある。友達もできた。

けど、どこに行くにせよ、何をするにせよ、
「アジア人ですがなにか」
というスタンスで歩いている気がする。

日本にいるときはアジア人であるということが当たり前だったし、
海外から来た友達も割とたくさんいたけど、
だからといって、
わざわざ私が何人であるかなんて考えさせられる機会はほとんどなかった。
だからこそこの気持ちが新鮮だし、違和感を覚えているし、複雑。

別に、具体的に何をされたとかそういうことではない。
ただ、外国人と仲良くなる時に感じる、
言葉に表せないが嬉しくて、刺激的で、知らない世界に足を踏み入れたような、
「あの感覚」が、彼らとの会話では一生感じられない。


アメリカの他の州から来たアメリカ人の友達や、他の国から来た留学生の友達とはすぐに打ち解けてとても仲良しになった。もちろん「あの感覚」もあった。



「多様性を受け入れ合うことが求められる社会に生きている」
という感覚は
多かれ少なかれ誰しもが感じていることなのではないかと思う。

でもそれはまだまだ幻想で、
白人社会に白人以外の人がいることがオカシイことで、
白人以外は劣っていて、醜いと、
本当にそう思っている人がまだまだいる。


確かに欧米の国の人に比べたら
アジア人は
目は小さいし
背は低いし
足も短い。

でも、だから何って話。

目が大きければ、その目力で気に入らない人を睨みつけてもよくて、
背が高ければ、見えないものは存在しないものとして見なくてもよくて、
足が長ければ、価値がないと判断したものは蹴飛ばしていいんでしょうか?

容姿なんて、その人のただの特徴なだけで、
それによって人間性を否定される必要なんてない。

むしろ違いを受け入れて
相手の文化を尊重して、知ろうとすること。
それが美しさじゃないかと思う。

たとえそれが難しくても、理解しようとする。
そういう姿勢が、本当の美しさを意味するのだと私は思う。


人種の問題に限らず、「美しさ」という恐ろしい測りによって
感じる必要のない劣等感を感じたり、
自分自身を失わないでほしい。









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