教科書から消えた語句――「ミッレト」
世界史講師の伊藤敏です。
(以下、冒頭はほぼテンプレ)
さて、2022年に高校社会科は大きな転換点を迎えました。
この年から、2018年に改訂された高等学校指導要領にもとづき、社会科の科目に大きな変更が生じたのです。
世界史における主な変更点は、
⑴ 世界史A・世界史Bの廃止
⑵ 世界史Aと日本史Aに代わる「歴史総合」、世界史Bに代わる「世界史探究」の設置
です。
この措置にともない、当然ながら教科書も大幅な変更がなされます。
実際に手に取ってみると数々の変化に驚かされますが、
なかでもやはり目につくのが用語の新たな扱いです。
新しい世界史探究(以下「探究」と呼称)の教科書では、従来の世界史B(以下「B」と呼称)と比較して語句の表記が変わったもの、説明に変化が生じたもの、新たに加えられたもの、などが見受けられます。
とりわけ、これらと並んで、教科書や用語集における記述に変化が生じた用語も登場します。
なぜこうした変化が生じることになったのでしょうか?
今回はそうした用語の一つである、「ミッレト」というものを取り上げて見ていきます。
では、はじまりはじまり~
1.「ミッレト」と教科書での扱いとは?
まずは従来の「B」の教科書をはじめとする、ミッレトの扱いについて見ていきましょう。
ミッレトとは、オスマン帝国(1299~1922)がユダヤ教徒やキリスト教徒に結成させた宗教共同体で、その自治を認める代わりに納税を課したものです。
このミッレトを介した非ムスリム(イスラーム教徒)支配を「ミッレト制」ともいい、多民族を支配するオスマン帝国の統治体制の柔軟性を示す好例、という文脈で紹介されることが多いです。
実際に山川出版社の「B」の記述では、
と記されています。
また、同じ山川出版社の用語集でも、
と説明されており、その頻度は④(赤字)と重要語句として登場します。
しかし、同じ山川出版社の「探究」の教科書では、本文からミッレトの表記は消え、わずかにコラムで紹介されるの留まっているのです。
これは他の出版社から刊行された教科書でも概ね同じ傾向にあるといえ(帝国書院など)、わずかに触れられることはあっても、少なくとも本文においてガッツリ説明or紹介されることはなくなりました。
今回のミッレトもまた、
現行の教科書における重要度は明らかに下がっていると言えます。
では、この変化が意味するものとは一体何でしょうか?
2.「ミッレト」の意義?
さて、実はこの事態を予告するかのような記述が、旧課程の「B」でも見られたのです。
それは、教科書ではなく、用語集にありました。
用語集の「ミッレト」の項目をよく読んでみると、その後半に
とあります。むむむ……これは一体……?
用語集の記述からは、「オスマン特有の制度でない」と読み取れます。
また、同様の記述は「探究」の教科書においてさらに一歩進められ、
例えば山川の「探究」では、
とあり、さらに帝国書院の「探究」では、
という説明がなされています。
これらを総合すると、
かつて「ミッレト」と呼んでいた共同体やそのシステムは、そもそもイスラーム国家に共通する異教徒政策の延長に過ぎず、オスマン帝国独自のものでは決してないと言えるのです。
この観点から言えば、「ミッレト」という言葉を使用する意義が見当たらないとも言えます。
では、この「ミッレト」という言葉はどこからやって来たのでしょうか?
そして、「ミッレト」が独り歩きをした、その理由とは??
3.「ミッレト」の起源と変遷
「ミッレト」の語源はアラビア語の「ミッラ」にあり、
その意味は「宗教・信仰(ないし宗派)」を意味する言葉でした。
ミッレトはミッラをトルコ語に取り入れたものであり、本来は宗教共同体とった意味合いはなかったのです。
「ミッレト」という言葉が今日知られるような用法になったのは19世紀であり、これはスルタンマフムト2世の治世です(1808~39)。
マフムト2世は「オスマンの啓蒙専制君主」と呼ばれた改革皇帝で、
イェニチェリの解体をはじめ西洋化を推進した人物でした。
このマフムト2世の治世の公文書に、ギリシア正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒の共同体として「ミッレト」という言葉が繰り返し登場するようになります。
当時のオスマン朝の官僚たちは、ミッレトはメフメト1世(位1413~21)の治世に遡るものとし、これによりオスマン帝国に固有の制度であるという見方が根付き始めることになります。
これに対し、もともと宗教共同体を指す言葉がありました。それが「ウンマ」です。ウンマはイスラーム教徒だけでなく、キリスト教徒(イーサーのウンマ)やユダヤ教徒(ムーサーのウンマ)といったように、様々な宗教共同体を指す言葉として用いられていました。
これが「ミッレト」の登場により、ミッレトが「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)のウンマ」を指すようになり、ウンマはイスラーム教徒の宗教共同体のみを指す言葉に変化したのです。
以上のミッレトの用法は、1876年に公布されたオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)にも反映されています。
一方で、「ミッレト」の構成員とされたギリシア人、アルメニア人、ユダヤ人の住民たちは、自らの集団を「民族」として認識するようになり、
やがて国民国家の建設を熱望するようになります。
ナポレオン戦争の影響を受け、オスマン帝国にもナショナリズムの波が押し寄せたのです。
こうして考えると、「ミッレト」とはナショナリズムに基づいた民族という概念に対抗すべく、イスラーム(オスマン帝国)側から提唱された概念と見ることもできるでしょう。
イスラーム帝国は、古くから他宗教(なかでもユダヤ教やキリスト教)への寛容性で知られました。こうした宗教の寛容性は、多様な住民を統治する上で非常に有利に働いたと見なせるでしょう。
大帝国であったオスマン帝国を支えたのも、これにあると言えます。
ところが、19世紀にナショナリズムが流入すると、その影響を受けてバルカン半島の諸民族を中心に、自立化の動きが強まるのです。
したがって、こうした動きに対して提唱されたのが「ミッレト」という概念でしたが、これは受け入れられることはありませんでした。
以降もオスマン帝国は、多民族国家であるがゆえに、「何をもって国民とするか」という国民意識の創出に四苦八苦することになります。
19世紀の半ばより、宗教や民族の違いを超えたオスマン人という概念が提唱されました。
しかし、これは1877年にアブデュルハミト2世がオスマン帝国憲法を停止して専制体制を開始したことで行き詰まり、
アブデュルハミト2世はアフガーニーの思想を基にパン=イスラーム主義によるイスラーム世界全体の統合を夢見ました。
ですが、1908年の青年トルコ革命でアブデュルハミト2世は廃位に追い込まれ、代わって政権を担った「統一と進歩団」は、トルコ民族主義に傾倒していきました。
結局は民族主義による国民意識が、多民族国家としての帝国よりも優先されることになったのです。
* * *
「ミッレト」が生まれた背景は、
ナショナリズムや国民といった、近代ヨーロッパの産物に対抗しようとした、オスマン帝国のイデオロギー的な抵抗であったと考えることもできるのかもしれません。
最終的には、オスマン帝国は様々な国民国家に解体しますが、一方で今日はその多民族支配に再注目が集まっているのも事実です。
国家とは? 民族とは? これら近代のもたらした遺産に対する解答は難しいとしか言いようがありませんが、
末期のオスマン帝国には、私たちも知らず知らずのうちに受容しているこうした概念を、改めて考えさせるきっかけになるのかもしれません。
* * *
今回はここまでです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!
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