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宗教 VS 科学??―錬金術の本質から問い直す

世界史講師のいとうびんです。

今回はやや一風変わったテーマで。つい先ごろ、科学と宗教についておしゃべり半分に話す機会があり、

そこで改めて思い至ったのが、

おそらく多くのみなさんが自然と 科学 VS 宗教 という構図を描いているのではないか、ということです。

こう言うからには、私は科学と宗教は必ずしも対立軸にあるものとは思いません。むしろ、両者は枝分かれした分派のようなものだと考えています。

というのも、ヨーロッパに始まる近代科学は、実はキリスト教の内部から発生したと考えることもできるからです。このように言うと、意外に思われるかもしれません。


なぜそう言えるのか? この宗教と科学のギャップを埋めるカギが、今回のテーマである「錬金術」なのです。

ではでは本題へ~


1.錬金術とは??

さて、まずは錬金術そのものについて。概念の確認からですね。

錬金術とは、辞書的に言えば「卑金属から貴金属、とくに金などを生み出すこと」を指します。この点に関しては、別段疑問になることはないと思います。


ただ、ここでもう少し掘り下げてみましょう。

「何のために金を生み出すのか、その目的は何か」


…いかがでしょうか?

「そりゃ金持ちになりたいからっしょ、一攫千金!」と答える方もいらっしゃるかと思います。もちろん、そうした理由もあるにはあるのですが、財を成したいということは、特に中世以降の錬金術では積極的な理由とは言い難いです。

また、錬金術に詳しい方であれば、「賢者の石やエリクサーで不老不死を目指したんじゃないの?」という指摘をされるかと思います。かなりいいところを突いていますね! ただ、これも不老不死になりたいために賢者の石だとかエリクサーのような霊薬を追究したわけでは決してないんです。


…では、錬金術の真の目的とは何か。

これを明らかにするために、まずは錬金術の歴史を簡単に振り返っていきましょう。


錬金術の起源は、古代ギリシア古代エジプトにあります。

とりわけエジプトのアレクサンドリアは、古代における錬金術の一大中心地として知られており、なかでもゾシモスという名の錬金術師の著作は膨大で現在もかなりのものが残っています。

ただ、古代においては賢者の石やエリクサーにあたる物質への言及は見当たりません


この古代の錬金術を受け継いだのが、イスラーム世界でした。

イスラーム世界では古代ギリシア・ローマの学問研究が非常に盛んであり、錬金術も例外ではありませんでした。

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イスラーム世界最大の錬金術師は、900年頃に活躍したジャービル・イブン・ハイヤーンで、彼は錬金術の実験の過程で、塩酸、硝酸、硫酸の精製や結晶法を編み出し、また王水(濃塩酸と濃硝酸の混合物で金すら溶解できる液体)を発明し、アルカリの概念も提唱したとされます。まさに現代化学の起点を成したわけですね。


このイスラーム世界の錬金術が、中世のヨーロッパにもたらされたのは12世紀のこと。

十字軍遠征によってヨーロッパ世界がイスラーム世界と接触すると、イスラーム世界の先進的な文化がヨーロッパ世界に次々ともたらされました

とくに古代ギリシア・ローマの学術文献が、アラビア語からラテン語に盛んに翻訳されたことで、古典復興(ざっくりいえば古典ブーム)が沸き上がりました。これを「大翻訳時代」または「12世紀ルネサンス」と言います。

ヨーロッパにおける錬金術の第一波は、この古典復興の一環としてやってきたわけです。


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2.スコラ学と錬金術

さて、ヨーロッパにおける錬金術の進展を見るにあたり、ここで中世神学についてみる必要があります。

当時の神学上の議論が、錬金術の実践と少なからず関連があるからです。というより、ひいてはこの神学議論に錬金術の本質が隠されているともいえるでしょう


まずこのタイトルにあるスコラ学は何かというと、一般には神学のひとつとみなされることが多いですが、厳密には学問や思考の技法、すなわち方法論に近いものです。

スコラ学では、聖書などのテキストを読みます。ただ読み流すのではなく批判的に読むということがポイント! そして文中や、ほかの参照となる文献と内容を比較して矛盾を見つけます。この矛盾の解決・解消こそが、スコラ学の最大の目的です。このあたりは世界史でも中世ヨーロッパの文化史で触れます。

…さて、そもそもなんでこんな学問が中世で盛んになったのか?

理由は単純で、中世がキリスト教の時代だからです。

中世ヨーロッパではローマ=カトリック教会の影響が絶大でした。だからこそ、中世の神学者たちには常に頭を悩ませる課題がありました。

それは端的に言えば、神の存在証明です。

「神を信じよ」という割に、「じゃあその神様って本当にいるの?」と聞かれて答えられない、これは教会にとっては由々しき事態としか言いようがありません。だからこそ、聖書などを批判的に読んで、神の存在やこの世界の真理に至ろうとしたわけですね。

ここに先ほど述べた古典ブーム、「12世紀ルネサンス」が合流します。

スコラ学において最も尊ばれたのが、古代ギリシアの哲学者アリストテレスでした。アリストテレスの論理学、形而上学といった思想・手法を、神の存在証明に活用しようとしたわけです。こうして、トマス=アクィナスという神学者により、アリストテレス哲学を応用して神学にこれらの学問が統合されました。これによりトマス=アクィナスは「中世最大の神学者」と称されます。

しかし、トマス=アクィナスにより大成されたスコラ学は、あくまでも理論的な考証に過ぎませんでした。だからこそ、より実践的に、すなわち実際の行動を伴って、聖書の内容を証明しようという動きが出てきます。

なかでもイングランドの修道士ロジャー=ベーコンは、イスラーム科学を参考に実際に実験・観察を通じて、聖書の矛盾を解消しようとします。これによりロジャー=ベーコンは、近代自然科学の祖と称されます。

…さて、なんとなく結論が見えてきたでしょうか?

このロジャー=ベーコンの実験・観察の一環として、錬金術が脚光を浴びたのです。一説ではベーコン自身も錬金術に没頭したと伝えられていますが、これは決して私利私欲によるものではなく、この世の真理である神の存在証明のための実験だったわけです。

ではここでようやく、冒頭の問いの答えを。

錬金術の目的とは、この世の真理を解き明かすこと。

そのひとつの指標(メルクマール)として、金の生成であったり賢者の石であったりが取り沙汰されるわけです。

完璧な物質とみなされた金が生成できるということは、完全なる存在、すなわち神の存在に一歩近づいたことに他ならないのです。

ですから、錬金術の進展は宗教的な情熱信仰心に裏付けられたものであったといえるのです。


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3.科学の時代と錬金術

 ここからはいよいよ科学の時代です。とはいえ、近代科学の礎となったのは錬金術であり、その理念は信仰心に裏打ちされたものでした。

こうした傾向は、近世に突入した17~18世紀でも実はあまり変わっていないとも言えます。

例えば、万有引力の法則の発見で名高いニュートンも、錬金術の実験に没頭していたといいます。彼は一方では熱心なキリスト教徒として、聖書の年代画定などの解釈学にも大きく貢献していました。ニュートンが発見した諸法則も、彼自身は「唯一者(=神)」の手に帰しているくらいです。

あるいは、近代個人主義の原点ともされるデカルトですが、デカルトの本当の主張は、「自分の存在以外信じられない中で生きていくには、もう一度絶対者(=神)への信仰に回帰すべき」というものです。

ニュートンにしろ、デカルトにしろ、彼らはいずれも神の存在証明、必要性を主張していたという点で共通しています


しかし、こうした傾向は17世紀より啓蒙思想が台頭すると、神への信仰に代わって理性が重視されるようになり、ひいては錬金術もまたオカルト的なものとみなされて見捨てられていきます。

さらには、キリスト教の教会においても、次第に錬金術は魔術あるいは異端者の信仰というように見なされ忌避されるようにもなります。最終的に錬金術は、教会からも科学の側からも見放されて、魔術的・前時代的なイメージを伴ったまま現代に至ってしまうわけです。


ですが、ここまでご覧いただいたみなさまであれば、「オカルト」「魔術」「異端」といったイメージは、錬金術の実像を歪めているものだということが容易にご想像いただけたのではないかと思います。

そればかりか、近代科学は錬金術、すなわちキリスト教の信仰心から発生したという点も、決して破天荒な話ではないとおわかりでしょう。

少し極論めいた言い方をしますが、科学も宗教も本質は変わりはありません。この世界の真理に迫ろうとするという点では、なんら変わりはないからです。その根拠に「神」をもちだすのか、「理性」で迫るのか、それだけの違いに過ぎません。


ですが、こう考えることもできるのではないでしょうか、

私たちは科学で日常のすべてが説明できると思い込んでいませんか? 

それでいて、常日頃から科学の存在をそこまで意識していないのではないですか?

また、科学的な根拠によらないことを言うと「非科学的だ!」といって糾弾されることはありませんか?


…以上の3つの問いは、「科学」が「宗教」に代わっても、充分に意味が通じるはずです。

私たちは現在、「科学」という宗教のもとで生活している、という見方もできると思います。

もちろん、今更宗教に立ち返った生活など、私にはできるはずはありませんが、しかしだからといって、科学ばかりを盲信するのもまた違う気がするのです。

科学も宗教と同じく思想のひとつ、そう考えると、どちらも無条件に鵜吞みにするのがあまりに危険であるといえるのではないでしょうか。

今回のテーマである錬金術は、宗教から科学へと至る時代の転換点に現れ、そして最後はどちらからも見放されるという運命をたどりました。

何が正しく、何が誤りかを決めることは容易ではありません。

だからこそ、一方的な思想や考え、自分に都合のいい意見やデータだけを持ち出すことは、他者の排除につながりかねません。


錬金術は科学にしろ宗教にしろ、様々な思想との付き合い方を示してくれる、そんな存在ではないのかと私は考えるのです。


※今回の記事、錬金術に関しては、↓の本に多くを依りました。ご興味がある方はぜひ手に取ってみてください!

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