猫に導かれて【ノンフィクション短編小説】
本当だったんだ…
心の中でそう呟く。
踏切の赤いランプは交互に点滅し、何故だか気の遠くなるような音を、リズムを刻むように発している。その音を、時折ランプの光で赤く照らされる部屋の壁を見つめながら、窓際に敷かれたシングルサイズの布団の上で横になりながら静かに聴いている。
お風呂上がりの微かに火照った体は、夏の夜の気だるいような蒸し暑さのせいで、すでにうっすらと汗をかいていた。
12時を20分過ぎたあたりで、あれほどうるさく鳴いていた踏切が、パタリと静かになる。終電がなくなっているとは知らずに、線路沿いを誰かが今日も駅に向かって走りだす時間帯。
先に風呂をあがった女は寝息を立てながら、身体をわずかに上下に揺らしている。男はしばらくその横で動けずにいたが、突然意を決して女の身体に手を触れる。呼吸と共にわずかに揺れていた二つの丘は、男の行動と共に形を変えた。
夏の始まり、退屈とも面白いとも取れる大学の授業の前期を終えた男達が、夏の始まりを祝して飲み会を開くとなろうとも、話題はいつも同じだった。
いつもと同じように1人が口を開いた。
「…そしたら本当に、猫を見にこないか?って誘われて、マジでその晩行けたんだよ!」
仲間のその一言に、その場にいた全員が脳内をピンク色に染め上げる。
夏が少し進んで、また次の飲み会で他の男達が口を揃えて言った。
「本当に、猫を見にこないか?って誘われて、俺もマジでその晩行けたんだよ!」「俺も行けた!」
大学の最寄駅に住む女と飲みに行くことになり、飲んでる最中に一人暮らしに似合わず猫を飼っている女から、猫を見に家に来ないか誘われる。その流れにたどり着くと、必ず最後までいける。…というなんとも下世話な話。
誰もが信じなかったその話は、夏の始まりと共に伝説から現実に変わっていた。
女と飲みに行くなんて、すでに夢のようなことだと考えていた男にも、一つ目のハードルを超えることの難しさを忘れさせるほどに、その話は手の届く場所にある理想郷へのまたとない道標となっていた。
願いが叶う瞬間は、まったくといっても突然だった。
「今度2人で飲もうよ!」
気がつくと夏が終わりかけの、後期の始まりになっていた。夢が現実になり、また夢に戻りかけようとしていた矢先、男は一つ目のハードルを超えた。
どこにでもあるような駅前の、どこにでもあるようなチェーン店の焼き鳥屋で、女と対面で座る。事前に危惧していたのが馬鹿らしくなるほどに、会話に花が咲き、酒のペースは上がり続け、意識がまどろみ始めるかどうかになった頃。女は元彼の愚痴も出尽くしたのか話題を唐突に変え、飼っているペットの話になった。
「最近仔猫飼い始めたんだぁ」
「え?一人暮らしなのに猫飼ってんだ。知らなかったわ。」
一つ目の嘘で返す。猫を飼っているのは、何度も聞いた話。すでに分かっている。
そこからは、男子特有の女子をいじるくだりをおり混ぜ始めた時
「えー本当に可愛いんだってウチの子!じゃあ今日ウチに猫見に来なよ!可愛がってあげてよ!」
「いや、今日!?急だな!断ったらどうすんだよ!」
突然の流れすぎて断りそうになる。ぜったいに断ってはいけない、しかし扉はすでに開かれている。
「急だけど、ウチそこの線路のすぐ横だから近いしとりあえず来て。」
話が出てからは早かった。
女が会計を呼ぶと、誘ったのは自分だからと会計を全て済まし、手を引いて家に導かれる。
振り払うことも、財布を出すことも出来たはずだが、自分の行動の一つによって、道標が消えては困る、と男は流れに身を任せた。
部屋の前の扉でわずかに待たされると、突然扉が開き手を引かれる。
部屋に入ると小さな子猫が、暗い部屋の隅に置かれたケージの中で静かに寝ていた。確かに可愛い。
「マジで飼ってたんだ、可愛いね」
「でしょ?てか、ちょっと待ってね」
女は部屋のさらに奥に消えると、明らかに男物の部屋着とタオルを手に持ってきた。
「はいコレ、元彼のだけど多分サイズは平気だよね?使っていいよ。とりあえず先にお風呂入るけど、シャワーだけですぐ出るからテレビでも見てゆっくりしてて。」
流れるように現れては消える女に、幻の中でしか見ることの出来ない蝶のようだと男は考えたが、深く考えることをやめた。
女はシャワーから出ると、シャンプーとボディーソープの見分け方を説明して、男をお風呂場に押し込むと自分は部屋の奥に消えていく。
シャワーを浴びると、全ての汚れが流されると同時に、現実か幻かがよりハッキリとしてくる。
本当だったんだ…
心の中でそう呟く。
シャワーを浴びてクーラーの効いた部屋の中で、女は毛布だけをかけて、すでに布団に横になっていた。
夏の遮光カーテンを容易に避けるように、踏切の赤いランプは部屋の中を照らしていた。幻のような現実。
男は元着ていた服を畳み、タオルを風呂場の洗濯機に中身を見ずに投げ入れると、すぐに女の横に倒れ込むように寝転んだ。
時折聞こえる踏切の音がしなくなった頃、意を決した男は、女に覆い被さるように胸に手をかける。雲よりも柔らかい、どこまでも包み込むような柔らかさと、その奥にある肉の重みを掌で確かに感じとる。
寝ていたかのような息をこぼしていた女の呼吸のリズムが変わる。男はそのまま、相手の反応を見るかのように胸に沿わせていた手を動かし、相手の唇に己の唇を重ねようとしたその時だった。
「リロイ、童貞でしょ?」
「はっ?違うよ?なんで?」
男の顔を見ずに、窓の外を見つめる女にそう告げられると、男は手を離し元の場所に戻し、そのまま天井を見つけ直す。
どれほど時がたっただろうか、女が本当に寝息を立て始めるの確認し、音を立てずに身体をゆっくりと起こす。借りた洋服を脱ぎ、綺麗に畳み直し、着てきた服に着替える。
ふと玄関のすぐ横にあるケージに目をやると、さっきまで寝ていた仔猫と目が合う。
男は大きな身体を縮め、猫の目線に顔を下ろすと一言
「俺は今日無理だったわ。」
何を言われたのか理解しているはずもない子猫は、小さな鼻を伸ばされた指先にひと擦りすると目線を逸らそうとはしない。
男は、愛らしい眼差しに後ろ髪を引かれる思いになりながら、静かに鍵を開け外に出ると、オートロックの扉を静かに閉めた。
そして男は、夜の街を誰にも見られず静かに移動する猫のように、背中を丸めながら家路をゆっくりとたどるのだった。
リロイ太郎
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