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人は感動と共に成長する

人生に於いて人は幾度も感動を覚える.しかし機会の感動は数少なく,理由の説明できない感動の共有は人生で数回しかない.

感動の最終回を迎えたドラマ,大好きなアーティストのコンサート,今まで超えることのできなかった壁を超えた瞬間や一致団結し何かを成し遂げた時.

これらの感動は人間のセレンディピティに関係し0の状態からは生まれない人間の成長によって発生する感度である.

今日,僕は感動のあまり涙を流しそうになった.
この涙の意味を僕は他人に説明することはできない.しかし感動を共有して共に涙を流す.

共に涙を流し感動を行う.

感動は共有できる感度だが,言語化することはできない.

しかしこの感動という概念上の産物を他人と正式に共有できているかは理解し難い.

もしかしたら僕とは違う部分での感動を覚えているのかもしれない.

Aさん→α感動 B→β感動

を覚えたとすれば感動の共有は行われておらず各々の感動は行われていることになる.

ではなぜ感動は人々をまとめるのか.

単純な話,人々は感動による共有を思うことで一致団結という一種の偽コミュニティを作り出す.このコミュニティでは真の感動は求めず個々の感動が他人の感動として処理され偽として作用するのだ.

共有の感動に真実はないのである.

そして,この手の感動は人々を大きく躍進させる.

感動は0から生まれることのない概念だと述べたが感動の共有も0から生まれることはなく,この感動によって人々の感動の欲求は高次になっていく.

要は前よりも高いレベルでの感動を求めるようになる.この高いレベルというのは先ほどの高次と同じ意味だが発生の源泉は今までのライフワークにおける微々たるものかもしれない.

例えば歳を取ってくると相撲が好きになったりクラシックが好きになってくるなど今までの経験が感動に繋がり脳は高次の感動を求めるようになっていく.

人が得る感動は経験による高次の欲求なのだ.

僕もやはり人と関わるのが嫌いだった幼少期に比べ人と関わることによって得られる感動を求めるようになってきたのだと実感する.

僕の今は人と何かを成し得た時に得られた事象に対する感動が涙(感動)を生み出すのだと思う.

そうやって人は成長しながら高次の感動を得られるようになっていくのかもしれない.

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