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ジェネレーションレフトは実現可能な目標なのか

若者が政府に訴えかけて新しい何かを求めている.

その姿は雲に隠れて見えない.何かを達成したいが達成する目標がわからない.

最近の日本はそんな感じがします.

アフリカや中東を見ると若者たちに関わらず国民が政府に向かって叫んで求めている.

独裁政権下の統制や不平等に嫌気が差した場合が多い.現在でもウガンダでは独裁政治に悩ませられた国民が現職大統領のムセベニ氏を打倒しようと活動している.

日本のような民主主義国家を謳っている国は全世界を見てもそれほど多くはない.民主主義外の選挙権の保障を完全にされていない人間は世界人口の約7割と言われ,55億人もの人々は選挙権の保障されない中で生活をしている.

国民は国家からの自由を求める.手段は選ばず人の死によって自由を求める事もあるのが現状だ.

そんな状況を見ると日本は少し違った状況下にあるかもしれない.

第一に日本国民が求めてるのは自由なんかではないだろう.

中国やロシアに比べれば圧倒的な自由を手にしている.

では何を求めているのだろうか?

日本国民が求めるもの.それは「さらなる自由」だ.

自由に関してちょっとWikipediaで調べてみると

Liberty is the state of being free within society from oppressive restrictions imposed by authority on one’s way of life, behavior, or political views.

Wikipedia

と出てきた.簡単に翻訳すると「社会の中で権威から課せられる制約から個人の生活や行動が解放される事」として述べられている.

要は国民の権利を得られた民主主義以上の何かを求めているのが現在というわけだ.

そう考えると構造的には中東やアフリカと似ている.

やはり人は政府というコミュニティ,共同体から常に解放を求めているということ.

しかしそこには大きな間違いと方向性の指針がある.そんなことを今回のジェネレーションレフトのテーマで進めていきたい.

ジェネレーションレフト

最近,Twitterなんかでジェネレーションレフトが話題に上がる.
つい先日,友人との会話でジェネレーションレフトの存在意義について少し考えてみた.

日本の思想は複雑化しているのにも関わらず,2つの派閥に分けられる.それが「右翼」と「左翼」という概念的分断だ.

なんとも日本人らしい思考とも言える二極化だが,実際は右翼の中にも思想は存在し,左翼の中にも思想は存在している.

しかし,右翼から見れば左翼は左翼だし,右翼は右翼なんだろう.実際には思想に近しい部分は存在していても派閥として二極化してしまったために祭りのように戦わないといけない.

まさに戦争と同じように.

このジェネレーションレフトに関しても何も考えず振り分ければ左翼に分けられるのかもしれない.

最近の感覚で言うと左翼の飛び出た特攻隊のような過激派のように思われる事が多い.

彼らは温暖化などの環境問題に敏感で,今の資本主義大勢を批判することが多い.そのために政府・社会に自分たちの求める社会を訴えかける.昔の学生運動と類似した活動と考えた方が理解しやすい.

この流れは自然なものだった.資本主義では富める者はさらに富んでいき、貧困者はさらに困窮していく.

老人は資産を保有し、資産を運用することでさらなる富を得ることができる.しかし若者は働いても生活ギリギリの賃金下の中で生活している.実際のところ20代の若者の多くが10万円以下の貯金で生活している.

資本主義体制に嫌気がさした若者の足掻きみたいなところもあるだろう.

少し前にヨーロッパ圏で起こった美術館での訴え行為や道路上で座り込む運動もジェネレーションレフトの抗議活動の悪化事例と考えていいかも知れない.

ルーブル美術館の展示品にトマト缶を投げつけ壁に自分たちの手を貼り付ける行為を見たことがある人は多いと思います.

私も実際にニュース記事で知り驚きました.私の友人はTwitterでInstagramで,TikTokでと色々なSNSを伝って人々に伝わっていきました.

みなさんも同じような感じで知ったと思います.(実際に目に見た人は限られていますので...)

その時に私が第一に感じたのが「思った以上に人の目は冷たい」ということです.

Twitterでいうリプライ機能の事なのだが,

つい我々の目線は被害者側に向かいがちだが,訴えかける側の意見も確かに納得できるところはある.

抗議活動の仮想化

しかし何故激化してしまうのか.それには社会の複雑性が絡み合っていた.

まず少し前の学生運動を見ていこう.

学生運動の主な活動としては

・自分たちの主張をまとめたポスターやタテカン(立て看板の作成)

・授業後や休日に演説

・校内での集会や討論会

が主な講義内容となっていて地道な運動だ.しかし時に激化してしまう.校内へ繋がる道路にバリケードを設置したり,授業のボイコット.デモ活動など激化する場面がたちまち見えた.

そこで今のジェネレーションレフトの活動をまとめてみると構造としては酷似というか同じだ.

要は一昔前の学生運動も今のジェネレーションレフトの運動は名称の変化であって矛先が違くとも構造自体は同じで活動も似ているということだ.

そう考えると激化する理由も紐解きやすくなる.

元は学生運動は政府や学園側に自分たちの意見を広め,学生の内心を理解してほしいために行っている.

ジェネレーションレフトも同じで政府や社会に今の世界の問題を突きつけ,解決するように催促している.

どちらも注目を集めるのが主な目標となっている.

昔はテレビだったのが,今はSNSが主な活動場所ということだ.

内容も過激な行為というよりは注目を集める行為に変化している.

最たる例がルーブル美術館で起こったデモ運動と思う.

ルーブル美術館のゴッホの「ひまわり」にトマトスープを投げつけ,自分たちの手を壁に貼り付けるという周りから見れば奇怪な行動を彼らはとった.

その行動を見て我々は,「絵は関係ないだろ」「ゴッホが可哀想」と批判的な目で見る.

自分たちの主張をぶつけたいのであれば,国会議事堂に殴り込めばいいだけの話だろう.

別にルーブル美術館に行って絵にトマトスープを投げつける必要もないし,道路の真ん中に座り込む必要もない.

それでも,民衆の前で奇怪な行動を取る理由,それはSNSが活動場所.ということだと思う.

SNSという双方向多数に向けられたトピックの矛先は我々だ.そしてその矛先を決めるのも我々だ.

君は面白いと思うトピックが見つかれば「もっと多くの人に見てもらいたい」と思ってRetweetをするだろう.

そのRetweetされたトピックは人を伝って多くの人に伝達されていく.

簡単な話,多くの人から注目を集めるのには2つの方法がある.

1つ目は,何かの1芸で有名になること.これは皆同じように将棋で有名になったり,けん玉で有名になれば一定の認知度は得られる.これに関してはテレビの構造に似ている.

2つ目は,多くの人が倫理的に反していたり,社会が受けれてくれないようなイレギュラーな存在になることだ.

あまりいい例ではないが,「酒鬼薔薇事件」なんかも社会から受け入れてくれない事例としては構造的には似ている面がある.

美術館や道路に座り込むのは罪の大きさ的には小さいものの社会への反応を考えると同じような部分を感じられる.

それでけ社会が受け入れてくれないことをして有名になるわけだから.

しかし結果として世界全体でジェネレーションレフトや環境活動家に冷たい目線が向けられる時点で失敗と考えていいかもしれない.

政府や企業に向けた批判の矛先が逆に人々の目線に刺さり,対しているのが人とになってしまっている.本来なら賛同を集めるべきとも言えたのだろうが、一匹狼の状態になってしまっている.

SNSが土俵となってしまった環境家たちはただの迷惑人間として社会の隅に追いやられるようになる.

仮想化から現実への転換戦争

では,本当の意味での「訴え」は何が必要となってくるのか.

いくつか解決策は存在するが,手っ取り早いのはフランス革命と同じ経路を辿ることかもしれない.とは言っても民主主義の国では王権制度が廃止されてしまっている.首を取りに行きたくても革命に必要な首はどこにも存在しない.

では,無理ではないか.と思うかもしれないが,それは違う.

通常革命の時,王国の長の首を取るのは革命として他国や自国の王権制を主張する人間にプレッシャーを効かせるためのただの道具にしか過ぎない.

簡単な話,政府に対しプレッシャーを掛ければ成功の道と思える.

例えば,地方都市における人口の割合を自分たちで決めることだ.ジェネレーションレフトと呼ばれる思想を持った人間を一つの地方に集める.

そこの議会に選ばれる議員をジェネレーションレフトの考えに近しい人を投票で選出させればいいのだ.

日本のような民主主義を採用している国だからこそ可能になる方法の一つだ.

実際にフランス革命の時も議会の制圧から革命が始まったと言われている.

女性のために活動してくれる地方都市を作ったり,男性に優位に働く地方都市を作ることは同じ思想を持ち合わせている人の間であれば可能な話だ.

さらに言うと、今の社会はSNSと呼ばれる双方向多数のコミュニティが存在している.

それを使って人を集めて、自分たちの思い通りの地域を作れる可能性は無限大に広がっている.

我々は民主主義という一つの巨大コミュニティの住人であり、それ以外のイズムを実現するのは不可能だ.

それが嫌だったら他の国に移動しなくてはいけない.

その巨大コミュニティの中で自分たちの求める政治、インフラ、思想を築く必要がある.

これは一つの可能性の話であり、実現の可能性、実際の状況や結果に関しては何も責任は持てないアイデアに過ぎない.

現実に存在する「若者の貧困化」「環境問題の進行」「男女間の差別」などの問題解決には、選挙で自分の思想に近しい人物を当選させる必要があり、その投票権は1人につき1つだけしかない.という条件下の中にいることを理解しなくてはならない.

選挙で「老人のせいだ」と言うのは思考停止なだけで可能性というのは無限大に広がっているものだ.


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