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僕は理解してないし理解できない

僕は最近ちょっとした縁で地方の議員さんと話すことがあるんだけど内容は防衛だったり地方復興に関してだったり様々.相手の議員さんは思った以上に面白い話をしてくれて僕は毎回その話に聞き入ってしまう.

普段僕は政治に関してはあまり関心がなくて政治系のツイートだったりニュースに関してはあまり見ることはない.政治のシステムに関しては面白いと思って調べたり考えたりすることはあるけれど、不祥事系にはアンテナは張らないようにしている.なぜなら不祥事系の問題に頭を突っ込んで正解だ.不正解だ.と選択は良くないからだ.さらに言えば当事者にしかその問題はわからないから外から「やいやい」いうのは好きじゃない.

その議員さんと話す1番のメリットはその市区町村の現状が肌感覚で伝わってくることだったりする.DX問題ひとつをとっても現場では導入に対する難しい意見だったり複雑な問題が絡まったりしている.問題の現場にフォーカスを当てないとわからないことは結構面白い.

雑草を刈っても何度も生えてくるのは根が残ってしまっているからで問題も同じように根本的な問題を解決しない限り、全体数で見てもディティール側では問題が小鰭付きいずれ蝕まれている.

だから僕は細かいフォーカス当てるんだけど、そこで毎回感じるのは理解しようとしても理解できていないということ.

毎回僕はZoomやLINEといったツールを使って話すんだけど話す人の中にはその町にいったことない人もいる.そんな中で住民の話を聞いて「わかりました.だったらこうすればいい」とは言えない.その町の空気感と考え方と文化を何も知らない人が外か口を挟んでも混乱を招くだけだ.

そこを理解したかのように持論を話す人は「ちょっと違うんじゃないかな」とも思う.これは養老孟司氏の「バカの壁」の冒頭の話なんだけど妊娠している妊婦の出産の瞬間の動画を生徒に見せた時男子は理解したかのように感想を書くが女子はディティールまで詳しく書いて自分ごとのように感想を書いていたという.要は今まで自分が勉強してきた学習してきたものをアウトプットする瞬間にあたかも自分が全てを理解したかのようになってしまう.

この話に中のバカの観点はかなり広いというが、自分が常に理解している気になってしまうのは避けた方がよくて、常に僕は理解できていないからもっと知りたいという気持ちで臨んだ方がいいと思ってるし、常にそうしている.別に自己啓発的に言いたいわけじゃなくて,新種の知ったかぶり種は結構危ない.

数学的な数字に関して言えば結論までのプロセスは理解できるが、政治だったり社会的イシューに関してはすごくディープなもので、当事者たちの雰囲気も含まれてきてしまうから理解できない.そんなことを思っているがアウトプットは必要だから記録用にでも残してお前は何もわかってないと罵倒されるのを待っている.
そんな2023年美術館の2階より.

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