見出し画像

赤信号で渡らない日本人は素晴らしいのか

「日本人は赤信号でも渡らない」

これは日本人に普遍的な価値観として認知されている考え方だと思う.外国人が日本に来て驚くことの一つが赤信号で誰一人渡らない事と言うほど異質な考え方なのだ.

この考え方に異を唱えた人物がいる.それがサッカー日本代表監督を務めたフィリップ・トルシエだ.

彼ら「誰も赤信号を渡らないことにショックを受けた」と述べている.

日本人からすればイカれた奴程度の話なのだろうが、実際この話は的を得ているのではないだろうか.

我々にとって赤信号の意味とはなんなのか.という根本的な問いを考えてみたい.

もちろん、自分の命を守るため、だろう.そして社会の秩序を保つため、とも答えられる.

信号が機能していないような東南アジア諸国では信号が青に変わってもバイクがすり抜けてきたり普通に無視して走行している場合がある.

そんな国では事故は日常茶飯事でよく車とバイクが接触してしまう.別に相手も理解しているから「ごめん」で済むのだが日本ではそうはいかない.

日本の規律制度の厳格さには目を見張るが、それによって素晴らしい社会を構築している評価される.

しかし最近の日本を見ると徐々に表象の危機に陥っている問題を目にする.

例えば老人の暴走は顕著な例で接触事故や信号無視など度々ニュースに挙がってくる.
彼らには厳格な規律は通用しない.頭では理解できていても出力ができないから結局事故を起こしてしまう.

これに対し人々は高齢者の免許返納の義務化を訴えるが、これは限界があり、地方都市で住む老人にとって車のない生活はライフラインの停止に近い場合もある.

この問題に対し僕が思うのは「赤信号を渡る意識」である.

「赤信号を渡ってはいけない」という普遍的な理解によって青信号の時は車は来ないと安心してしまいスマホを見ながらの歩行や左右の確認を怠った歩行が行われてしまう.

街中で注意して見るとイヤホン、スマホ、左右確認しない人が9割と言ってもいいほど誰も危機感を感じずに青信号を渡っている.

日本の交通は規律を厳格化する事によって歩行者の危機管理を低下させてしまったのである.

だったら「赤信号でも渡ればいい」というのが僕の考え方で、車の来ていないのに赤信号だから止まるのは少し違和感を感じる.

信号が自分の身を守るための道具なのであれば信号は自己判断の基にあるべきなのだ.

我々は信号という絶対的信頼の対象によって安全を確保していると感じていたが今では作用しなくなってきている.

今後は自分でリスクを判断し実行する事が必要になってくる.まずは「今は赤信号だが渡れるか」というリスク判断ができるほどになるべきだと思う.

赤信号は安全地帯だ.車が来なくても赤信号は待つといった普遍的な理解ではなく個々人が場合事によるリスク判断をもう少し考えてみるべきではないだろうか.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?