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10年前、何してたか。その時、何を感じていたか。 vol.2

最近、社内外を問わず、新社会人や2−3年目の若手、就活生の方と接する機会が増えております。学生時代は何していたか、10年前ってどんな感じでしたかと、をよく話すので、整理もかねてまとめてみます。

前回の続き、ベトナムにいく前後のお話をします。一つ目の記事から読んでいただけますと幸いです。(https://note.com/leost/n/n4242817da9db)

記憶も曖昧なので、覚えていることは言い切りで、怪しいところは「思います」と記します。拙筆ですが、楽しんで読んでいただければ、幸いです。

ベトナムへの行き方
この10年間、再訪をしようと何度も考え準備しましたが、他のことを優先してきました。今年こそはオリンピックで混んでいる夏の東京を離れて、ベトナムにひと月行こうかと考えていた矢先のコロナ。巡り合わせ、行こうと思った時に行かないと、永遠にその機を逃すなとしみじみ思います。

10年前の記憶なので、もう忘れていることも多くなってきましたが、当時は三ヶ月毎の更新が必要な就労ビザを取得しました。代々木の大使館に行った記憶がないので、おそらく専門業社に委託して取得しました。何気なく書いたこの「三ヶ月毎」が、後々いろいろな出来事のきっかけになります。

航空券は、国内から仁川経由で、ホーチミン。首都圏や関西圏からは直行便が当時あったのかもしれませんが、地方からは乗り換え必須でした。仁川がすでに拡張されており、トランジットの時に、「もう韓国でインターンでもいいのでは」と田舎者の下心。

お金もなく仁川ですることもなく、ベトナムの地球の歩き方で、とにかくタクシーの乗り方を必死でシミュレーションしました。白タクに捕まったらどうしようと、思ってました。AIESECの現地学生が迎えにきてくれることになっていたのですが、連絡が途絶えがちで、人様の国で働かせてもらう身としては申し訳ないのですが、ちょっと信用できてませんでした。

あれよというまにホーチミン行きに登場。アオザイのクルーのかた、ほとんどがベトナム、中華系の方で、背広の日本人は本当にちらほらという感じだったと思います。今でこそテレビでもダナンやホイアン、ニャチャンがリゾートとして取り上げられますが、当時はバケーション先に上がってくる国ではまだありませんでいた。たった10年前です。ベトナムとググっても、社会主義、ベトナム戦争、クチトンネル、JICAなどが、関連ワードで上がってました(すでに現在の検索機能・学習機能が実装されていたら、私の記憶違いです。)

飛行機の中では、なんの映画をみたか、どんなご飯だったか、記憶がほとんどありません。今年もし自分が学生でベトナムにインターンに行っていたら、すぐにスマホで写真ととって、Instaに上げて、その10年後の2030年も、ご飯やなんの映画みたかは残っているのかもしれませんね。

最初の記憶、ベトナムの匂い
今でも思い出される記憶、感覚。到着ゲートを出てからの記憶です。

もう夜の8時過ぎだったと思います。到着ゲートで待つ人人人、喧騒。ちょっとそれに酔いました。あとドリアンとヌクマム、食べ物の匂いが、じめぇっとした空気に混ざって、肌にまとわりつく感じ。空港ロビーには誰でも入れるわけではなく、入り口には警備・警察官がいて、出迎えの家族やリムジン運転手だけだったはずですが、とにかく人がたくさん。

その中から、出迎えにきてくれるであろうAIESECの方を、探したのですが、ゲートを出てロビーに出るまでに、人酔いと多さに面食らって、見つけられず、ウロウロしました。確か何往復かしてからやっと、一枚ちぎった大学ノートに細いボールペンで私の名前を書いたのを見つけました。

なんかホッとしたというより、ちょっとそれだけで疲れ切ったのを覚えています。今書きながらも、ちょっと疲れました笑。

自己紹介を片言英語でそこそこに、でかいスーツケースを押しながら、空港を出ました。あぁ思った通り、行手を阻む白タクの一群。何十メータかを歩くだけで、やたら肩や荷物を触ってきます。なぜちゃんとしたタクシー会社の乗り場をすぐ入り口に作らないのだと、ムッとしました。No thank you, do not touch meと繰り返しながら、正面を出て右手に数十メートル、そこから左に折れて直進して数十メートル。舗装がされていないところに、若干うる覚えですが、May Linh、VinaTaxi、PetroTaxiが溜まっているタクシー乗り場に到着しました。

今でも、白地に緑のMay Linhを見つけると一番安心していたと、当時の記憶が薄らとあります。イメージは都内で日本交通のタクシに当たった時のイメージ笑。ただ気を付けないといけないが、May Linhを真似た白タクもいるので、間違えて止めたら絶対に目を合わせず、その場を離れます。

May Linhに乗って、Nguyễn Đình Chiểu通りの滞在先に向かいます。ホーチミンにいる間に、3回ほど引越しをしました。最初の滞在場所であり、また2回目の引越し先の家です。

エネルギーに満ち溢れている国
今思い出しても、同じ通勤、移動には3日と耐えられない気がする、それが当時のホーチミンでの交通でした。見たこともない量のバイク。飛び島のようにポツポツいる車の間を、全てバイクで塗り潰します。渋滞につぐ渋滞と、2−3分に一回は目撃する接触?事故?、もしくは巻き込まれる、その瞬間に発せられる怒号。喧騒とはまさにこのことです。当時のホーチミンと比べると、渋谷の雑踏は穏やかです。

東京の通勤ラッシュも壮絶ですが、まだ整然としていますし、流れが読めるようになれば、まま行きたい方向にいけます。完全に制御不能、思い通りにならないのがホーチミンです。行きたい方向には基本的にいけない。諦めず図にロータリー交差点を何度もグルグル回って、接触を恐れず、グイグイ進む胆力が必要です。

幸いにしてタクシー、車内は外に比べれば、快適です。出発して10−15分、まず空港敷地から出られないところからスタートです。今でも鮮明に覚えています、空港からやっと出られて少ししてから、乗っていたタクシーの左ミラーが吹っ飛びました。道路の真ん中の工事現場のトタン建てのフェンスに、アクセルを踏み込んだ瞬間接触して、ミラーがもげて中の配線でかろうじてぶら下がっている状態。

多分会社に怒られる、修理費用払うことになるのか、運転手の深いため息を覚えています。それでも一時停止なく、グイグイ進みます。進まないと永遠に進まないので。

そんなこともありながら、空港でていくつかある大渋滞の交差点(ロータリー式で4−5本の道が全て合流する場所です)を全て通過して、やっと街に入ります。全体に薄暗い、その中に商店のネオンが煌々としていた覚えがあります。

普通なら30分かからない距離を1時間超かけて、やっと到着したと思います。とにかく全てのエネルギーを奪われてぐったりでした笑。

次回は、仕事、生活に慣れるまでを、書きたいと思います。

ちょっと余談。当時の身の回りを振り返って。
・異国にいくと、やたら日本語の活字、本を欲する。日本にいたときは、大して本を読んでいたわけではないので薄情ですね。まだあるのか分かりませんが、ドンコイ通りの川の方に、骨董屋さんがあって、時々、当時一緒にホーチミンに行っていた友人と日焼けで黄茶けた中古の小説を売って、買いをしていました。
・朝はバインミー、夜はもう疲れて大体がPho Bo。最初の家の通りには、現地でも有名な、サブウェイみたいなバインミー屋さんと、牛肉のフォーのお店があり、とにかく安くて連日買い食いしていました。Google Mapで調べて見たら、バインミー屋さんはカフェに、Pho屋さんはまだある様子。バインミー屋さん、まだどっかに移転してやっていたら嬉しいな。また行きたい。

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