瀬戸市美術館『北川民次と久保貞次郎』

とりあえずお詫びから入るスタイルが定着しつつある。
先日、名古屋市美術館『北川民次展』の記事を書きました。

「名古屋市美術館は九月九日で終了ですが。二十一日から、世田谷美術館に巡回いたします。その後、郡山市立美術館にもまいりますので、巡回先の皆様はぜひお出かけください。その際の参考になれば幸いです」などと書いたのですけど『世田谷美術館』の名前を『世田谷市美術館』と間違って記述しておりました。
ハッシュタグつながらないわけだ!

名古屋市美術館の北川民次展は終わりましたが、瀬戸市美術館の北川民次展は九月二十九日までやっています。
正式名称『北川民次生誕130年記念 瀬戸市美術館特別展
北川民次と久保貞次郎―真岡市コレクションを中心に―』
……長いですね。


瀬戸市美術館『北川民次と久保貞次郎』

久保貞次郎氏は、北川民次氏と共に美術教育に尽力した教育者だそうです。
不勉強にて今回初耳。色々と解説がありました。当時の「お手本に似せる練習」であった美術教育を改め、個人の感性を自覚し、自己表現につなげる手段としての美術教育を目指した方、という解釈で良いのかな。久保貞次郎氏が栃木県真岡市に暮らしていた事から、今回の展示に繋がったようです。
自分には久保氏についても、教育についても知識がないので語れないのですが、北川民次氏の創作活動に与えた影響から少しでも読み解ければと思います。

エッチング『瀬戸の母子像』

『瀬戸の母子像』
『瀬戸の母子像』版

版画とその版が数多く展示されておりました。
久保氏は美術教育以外にも「好きな作品があれば、少数でも購入して芸術家を支援しましょう」という「小コレクター運動」なるものを行っていたとの事。それで安価で売買できる版画の普及に努め、多くの芸術家が参加していたそうです。北川民次氏はその主要なメンバーの一人。
上記の記事の末尾、名古屋画廊で「え? 北川民次の作品、こんな値段で買えるの?」と驚いたと書きましたが、まさかここでその答え合わせができるとは。

美術というと「〇〇の作品が〇〇億円で落札された」などの話題が多いせいか、高額、富豪の趣味、投機の対象といったイメージがされやすいけれど、それは違うと。
自分も同じ想いなので、非常に共感するところ。

エッチング『水浴する二人の女』

『水浴する二人の女』
『水浴する二人の女』

裸婦像ながら素朴な水浴図。つつましやかなポーズで身を寄せ合う二人は、親子か姉妹か。それにしては似てないけど。友人なのかな。一緒にいると同じポーズをしてしまうのは、友人あるあるですね。そんな読み取り方もできるし、樹木と一体になったような構図のデザイン性を味わう事もできる。小品ながら……いや、小品だからこそ? 楽しめる作品です。

エッチング『かいう・女・バッタ』

『かいう・女・バッタ』
『かいう・女・バッタ』

くるくる巻かれてるのは子供なのかなあ。ショールをきつく巻き付けて、頭まで覆った人物は北川民次氏の作品に頻出。バッタは北川氏の象徴的存在。名古屋市美術館で履修済み。小さい作品だけど、北川氏盛り合わせ。北川民次ファンなら欲しがるだろうなあ。ちゃんと売れ線を考えて作っているというのは、版画の売買を盛り上げたいという久保氏の意図を酌んだものなんだろう。

エッチング『姉弟を抱く母』

『姉弟を抱く母』
『姉弟を抱く母』版

銅板じゃない? 亜鉛版かしら。クレヨンでグイグイ描いたみたいな太い線。これは版の材質の違いなのかな。それとも描くときにニードルじゃなくてヘラか何か使ったのかしら? 版を見ると、版に直接ガリガリやってるみたいにも見える。銅版を使わなかったのは、その技法を試すため?
せっかく版の展示をしてくれているのに、自分の知識と経験が足りないせいで、ハッキリ読み取れないのは悔しいなあ。とにかく、北川氏はさまざまな技法や材質に挑戦するほど、版画に深く取り組んでいたという事だろう。

アクアチント『トリオ』

『トリオ』
『トリオ』版

アクアチントは銅版画の技法。腐食させる部分をニードルで描くエッチングと違い、させない部分を筆描きする。
この作品は、白く残すところを筆で描いたのかな。塗り残す事で描かれた黒い部分は、まるで彫り残された木版画の絵のようだ。
アクアチントでは、腐食の回数を重ねて、濃淡の表現をすることができる。女性の髪と輪郭にそれっぽい痕跡はあるけど
あまり目立たない。
ポウッと霞むような質感は、アクアチント独特の味わいではあるけれど、北川民次氏の作風でこういうモチーフならば、木版画の方がしっくりきたかもしれない。
でもこの作品の、切り絵のような雰囲気も、また格別。

エッチング『アステカの人たち』

『アステカの人たち』
『アステカの人たち』版

メキシコ在住が長かったのに、コレみたいな、神話や歴史に取材した作品は、あまり多くない。名古屋市美術館でもほぼなかった。北川氏がいたのは、メキシコ革命後の革新政権が続いてたというが、その影響もあるのかな。メキシコ革命に材を採った作品は多く、その後の作品にも影響がみられる。そのあたりを考えると、小さな版画だけど重要なのかも。

そう考えると、他の版画はエディショナルナンバーが1/100、つまり「百枚摺りの一枚目」って特別な作品が大半なのに、コレは92/100って中途半端なのも、意味深に思われてくる。

リトグラフ『グロキシニア』

『グロキシニア』
『グロキシニア』原画(水彩・クレヨン)

グロキシニアは和名をオオイワギリソウと言い、ブラジルのジャングルの下生え、岩の上や崖に咲く花だったそうです。今調べた。そう聞くと、北川民次が好みそうな草花って気がしてくる。花よりも、葉が大きく力強いのを強調するような描き方も、それっぽい。原画の水彩とは思えない、ずっしりした存在感もなかなかすごいけど、リトグラフになってからの明るい感じが、やはり北川氏の意図したものなんだろう。花や葉は明るく輝くような色になり、その重たく黒い輪郭が影の濃さを、この植物にふりそそぐ南米の陽光が、どれほど強く激しいかを表している。

ガラス絵『横たわる女』

『横たわる女』

ガラス絵というのは、透明なガラスの裏から、普通の絵とは逆の順番で描いていく作品。ようするに、作画がデジタルになる以前、アニメに使われていたセル画みたいなの。

名古屋市美術館で見た『大地』など一連の作品を思い出す。しかし、色々なメッセージが込められていたあのあたりとは違って、こちらは素直に、横たわる女性の、寝息すら聞こえてくるようなくつろいだ雰囲気、たっぷりした二の腕や下半身から感じられる安らぎなどを、素直にうけとめることができる。
これも、久保氏の思想に基づき、個人の生活の一部になれる作品として創られたのだろう。

志野絵皿『女』『男』

志野絵皿『女』
志野絵皿『男』

生活の一部といえば陶器。これ、名古屋画廊でもあった!
あれは草花紋だったかな。御須の筆は闊達で、志野の野趣とこの上なくなじんでいる。字も良いなあ。
自分は下戸だけど、こんな皿に漬物でも載せて一献つければそりゃ心地よいだろうね。

油彩『アトリエの中の母子』

『アトリエの中の母子』

実際に瀬戸市にあった北川民次のアトリエを描いた作品。
定式幕みたいな敷布に乗った花瓶。生けられた花は、蘭の花とシダの葉に真っ二つ。
奥には子供を抱く妻。子供はクズっているのか、手を伸ばして母親の顔を押しのけている。
いかにもなモチーフが並んでいるのに、画架のキャンバスに描きかけているのは、ルクセンブルクの国旗みたいな配色のレダと白鳥。
ちょっととっちらかりすぎてるんじゃないか? 北川民次の意識はどこに向かっていたんだろう?
いや、このアトリエはどんな発想でもできる場所だ、という意味なのかな。パレットは半分も埋まっておらず、まだまだ色を創ることができる。何本もある筆も真っ白だ。
安穏とした絵に見えて、なかなかどうして、七十四歳にして意気軒高。

画架・椅子・卓。

画架・椅子・卓。

瀬戸のアトリエを再現した一画。壁面は写真の拡大。たしか実際の場所を見学した記憶がある。瀬戸のはずれ、ちょっとした丘の上だった。夏の暑い日だったから、草の匂いが絵の具の香りのように思われた。
椅子も北川民次氏が自らデザインしたという。縦長の座面、ひじ掛けはない。これはつまり、前後に身を乗り出したり、左右に体を傾けて、キャンバスを様々な角度から見られるって事かな。

筆・筆立て・パレット。

筆・筆立て・パレット

実際に使っていた筆とパレット。筆立ては、メキシコの壺。
今回は作品を鑑賞するというより、北川民次氏を偲ぶような展示だったなあ。
自分のようなファンにはたまらない企画たけど、北川民次を知らない人には、いまいち伝わらないかも。

しかし、自画自賛させていただきますと、私の前回の名古屋市美術館『北川民次展』の記事と、今回のこの記事を読んでいただければ、それなりに楽しめるかと思います。
何といっても、どちらの展覧会も撮影OKで、どんどん紹介してください、との事だったので、たくさん写真を載せることができました。
最近はそういう展覧会が増えてきている印象。
前回、今回の私の記事が、主催のご厚意に応えられていればよいのですが。

私が記事を書くことが、美術館の来館者増に、多少なりとも貢献できるよう、今後ともよろしくお願いいたします。


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