豊田市民芸館『或る賞鑑家の眼・大久保裕司の蒐集品』その1


豊田市民芸館

豊田市民芸館には、衣食住にまつわる手仕事の作品を収蔵・展示する博物館です。展示は主に三つの建物で行われています。第一民芸館は旧日本民芸館の大広間であり、当時の館長、柳宗悦の部屋も共に移築されています。

敷地入口より第一民芸館を臨む。
第一民芸館入り口。
第一民芸館玄関ホール。
第一民芸館展示室。
柳宗悦の館長室。

賞鑑家って何だ?

今回の企画展は、『ある賞鑑家の眼・大久保裕司の蒐集品』とのこと。大久保という人が集めたものを、展示しているらしい……それだけしか分からん。
そもそも、大久保裕司という名前、この展覧会のポスターで初めて知った。
「青山二郎、秦秀雄、白洲正子らの先達と実際に相見えた数少ない賞鑑家、故大久保裕司」などと紹介されているけど、その先達の名も実はよく知らない。ちょっと本を読んだ記憶はあるけれど、内容までは説明できん。
そもそも賞鑑家って何。
鑑賞家、と言われれば、ああ鑑賞する人か、とは思うけど。辞書では、鑑賞したり鑑定したりする人、なんて書いてあるけれど、だから何っていうか。
創る側の芸術家や、何々派などの流派、あるいは国や時代、美術館の名前を冠した展覧会はいくらでもあるけれど、賞鑑家なんて、見たり集めたりする側の名前を冠した展覧会なんて、聞いた事がなかった。
さらに展覧会概要を読み進めていくと「歴史や思想に興味なく」「知性などは百害あって一利なし」「感性の赴くままに求めた蒐集品の数々」……なんか恐ろしい事が書いてある。
つまり「その時にビビビと来たもの集めました。何の理屈も脈絡もありません」と。
……ひとつ間違えればゴミ屋敷じゃないですか。
それが展覧会になっちゃうって、どう言うコトなんだろう?

天平時代金銅仏立像

天平時代金銅仏立像。背景は常設展示されている円空仏。

第一民芸館の広間の中央に、いちばん目立つ独立ケースにあるのは、天平時代の仏像。
「心のままに集めました」っていうから、何が出てくるのかと思ったけど、真っ当な仏像ではないですか。
キャプションが時代と材質くらいしかないという、やたらアッサリしてるのが気になるけれど。
仏像と向き合うと、後ろにずらりと並んだ円空仏が見えるあたり、展示のセンスが素晴らしい。
仏像についての情報がないぶん、展示空間や、それを見る自分の方に主体がある?
なんとなく、その空間をさまようように、ケースをグルグル回ってみる。と、四角い穴が三つあった。この仏像の後ろ側、背中、腰、膝の裏。光背か何かついてたのかしら。
でもそれなら、丸くて小さい釘かホゾの穴のはず。穴は、どれも親指が差し込めるくらいの大きさで、しっかり四角く削られていて、しかも開口部には、板の厚みの段までつけてあった。何かを入れて、フタをしてあったようだ。
入れてあったのは、仏舎利? しかし穴は三か所もあるし。
遺骨か、珠か、経文の小さな筒か?
入っていたものはどこに行った? そもそも、寺社に祀られていたのか、個人の所有か?
やたらと色々な想像が、浮かんでは消えて、まるでこの小さな仏像に取りつかれたみたい。
あらためて見なおすと、思い浮かんだ全てが、どれが正解でもおかしくない。トロリととろけたような、滑らかな造形。焚かれた香の香りや照らしていた蝋燭の温もりがしみ込んだような色合い。大きさすら、手の中に包み込んだらどれほど心地よいかと思わせる。
大久保裕司氏も、そんな心地でこの仏像を見ていたのだろうか。

仏画・勾玉・珠・石硯・仏印……

仏画・勾玉・珠・石硯・仏印……

などと感動して、広間をゆっくり回り始めたのだけれど、最初のケースがコレだった。
仏画は分かる。文殊菩薩に金剛薩埵菩薩。相変わらずキャプションはそれだけしか書いてないけど、文殊菩薩の白い胡粉の色も良いし、金剛薩埵菩薩の、古い鏡に浮かんだ姿のような、カスレ具合もたまらない。
で……勾玉に管玉。水晶、メノウ、ヒスイかな。色とりどりの珠もある。いや、確かにきれいだけど。パンフによれば、「御堂や伽藍の建築に際し、儀式のために埋められたもの」とある。なるほど、勾玉は仏教じゃないけれど、仏様の絵姿を写す印といい、このあたりは信仰に関するものなのかな。
と思ってもう一度よく読んだら、
「……埋められたものの一部と思われる」分からんのかい!
いや、たぶんここは「思う」というのが重要なのだろう。
小さな水晶のカケラでも、石や土器のカケラでも、それを前にして、どれだけ「思う」ことができるのか。
大久保氏は、どれだけ「思う」ことをしたのだろう?
それが多くの人に伝わった結果、こんな展覧会が行われるほどに。
……なんだか挑戦されているみたいだ。
「俺はこれだけ『思った』ぞ、お前はどれだけ『思える』んだ?」
みたいな感じ。さて?

石仏・石塔

石仏・石塔

ずいぶん前の事。古い墓地に迷い込んだことがある。
最初、墓地とは分からなかった。単なる雑木林の、樹がまばらになった空き地という感じ。ただ点々と、豆腐を一丁、二丁と重ねた程度の四角い石が、地面からいくつも突き出していた。
その石のほぼ全てに、小さな札が添えられていて、「この墓についてご存じの方はご連絡ください」と、市役所の連絡先が書いてあり……それで、ようやく墓地だとわかった。
当時は墓石を加工する仕事をしていたのだけど、大物なら竿が一尺角、メインは八寸角あたりで、六寸角だと小さいねえ、って感じだったので、まさかそんな、豆腐ほどの小さな石が、墓だなんて思いもよらず。
それでもしっかり、自然の石とは違うと主張するように、各面を平らに削られていて、白く擦り減ったり、欠けたりはしているものの、精一杯に四辺を張って、碑なのだ、墓なのだと主張していた。
あの石碑たちの、文字を失った面の、のっぺりした白さと、刃こぼれしながらも鋭さを保っていたエッジの様子は、今も忘れられない。

石は硬いから、削られるとき、そこには強い意志がこもる。
刻まれた文字が、風雪に擦り減り失われても、その意志は残り続ける。文字を消す風雪は、時にはむしろ、意志の形を研ぎ澄ます事すらある。
ここに並べられた、説明のない石仏たちは、まさにその意志を示しているようだ。

石仏たち、あるものは、地面に転がされて削られたのか、白い傷跡が袈裟のようにかかっている。あるものは、火にでも巻かれたのか、半身が焼け焦げたように黒くなっている。ボツボツと、小さな穴がたくさん開いているように見える石仏は、苔の衣を着ていたのだろうか?
そうやって色々と想いを巡らせていると、小さな石仏が過ごして来た、苦難の時の長さが見えてくる。

元々の造形は、なんとも素朴な仕事で、芸術とか美術とかいう言葉はそぐわない。村で一番器用な素人が見様見真似でやったのか、石屋であっても兼業の農民か。技術や道具の制限を感じるけれど、仕事そのものはしっかりしている。頭を削り出すのは大変だったろうに、手を抜かずに形を作っている。少しでも衣は衣らしく、合掌は合掌らしく見えるようにと、頭と手の働きを尽くしている。
だからこそ、それに相応しく祈られ、守られてきたのかもしれない。
そして今や、様々な道程を経て、この展示ケースの中にたどり着き、炎天風雪にさらされることも、草生すことも、泥にまみれることもない。その代わり、祈られることも、村や道行く人を見守ることもなくなった。

自分が、この石仏の前に立って見つめながら、こんな風に思いを巡らせることは、彼らが失った、村人たちの祈りの代わりになっているだろうか?
彼らは、村人を見守っていたように、この自分も見守っているのだろうか?
さて……大久保氏はどんな風に思っていたのだろう?

印刷仏と陶磁器の小品たち

印刷仏・井戸盃・李朝盃・青磁盃・緑釉盃など。

壁に掛けられた仏画……というのかな、こういうのも。
キャプションには「印刷仏」とだけ……印刷と言っても、もちろんオフセットとかではない。木版かしら?
ちょっと前に見た、木彫の仏印、あれの使用例にちょっと似ている。
本当に、昔の庶民が自宅で祈ってたような、量産ッポイ雰囲気。ブロマイドかポスター的なモノかなあ。
その前の展示ケースに、盃や、お雛様の道具みたいに小さな徳利や壺といった、小さな器系の陶磁器がズラリと並べてあるので、なんだかお供え物がされてるみたい。
何にも入っていないけど、器そのものがお供えかもしれない。

ひとつづつ見ていく。
白い釉にかすかな混じり物でもあったのか、薄いピンクの水玉模様になっている御本盃。手の込んだ造りではない。むしろ器形は不格好ですらある。しかし、ごく淡い桃色の円が、ぽ、ぽ、ぽ、と、白い釉の下から浮き上がってきているのが、なんとも可愛らしい。もちろん偶然の産物だろうけれど、そんな奇跡が起こる事こそが、焼き物の楽しさ。

その隣りの青磁の筒盃も、やはり器形は凡庸だけど、米粒ほどの細かさの貫入が、まんべんなく表面を巻いている。
ロクロでこういう筒モノを作るときは、回転させながら上に引き上げていく。粘土は、ネジのように螺旋に伸びる。
この器の貫入は、その螺旋の形を表すように、綺麗に筒を巻いている。それが何とも可愛らしい。特徴のない器形だからこそ、その模様が引き立つ。

緑釉の盃。緑釉とは言うが、ほぼ白い。緑の釉は、溶け落ちたのか、径の半分ほどのところまでで、底に斑の模様を描いている。その隣の盃では同じように、こちらは赤い釉薬が、ポタポタと滴ったように玉になっている。鉄釉にしては明るく、銅釉にしては暗い、不思議な色。
この盃に何か注いだら、この緑の斑や赤い滴は、どんなふうに水面に浮かぶのだろう?

井戸盃。茶碗の井戸は知ってたけれど、盃にも井戸があるとは、初めて知った。高台もかいらぎも、見られない角度なんだけど、枇杷釉薬に特徴的な油揚の色、ぶっきらぼうな形は、確かに井戸茶碗。こんな大きさでも、井戸の特徴を出せるというのが驚き。

向かって右側の李朝盃、平べったくて天塩皿みたいなんだけど、やっぱり盃なのかしら。広い底に、緑釉が短いストロークで放射線状の文様を描いている。飛び鉋みたいだけど、そんなはずもなく。

奥の列の白磁は、前列に比べるとちょっとだけ、上手な感じ。盃の円形にゆがみも少なく、表面は滑らかで、指跡が目立たない。厚みも薄そうだ。小さな徳利や壺の口が、指先を細やかに使って整えられている様子から、職人の気遣いが伝わってくる。盃の底に、小さく書かれた「月」の文字、胴に一つ入った「ゝ」の文字、控えめだけれど、飾ろうとする気持ち、その器を唯一無二にしたいという想いが、そこにあるのではないか。

やっぱり、これは仏前に供えられていた器なのかなあ。実用的な大きさではないし、そうとしか思えない。直前に、石仏に感情移入しすぎたせいかもしれないけれど。

長くなったので一旦切ります。
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