横山美術館『華麗なる陶人形展』
横山美術館
徳川美術館から徒歩と地下鉄で二十分ほど。近くにはヤマザキマザック美術館もある。横山美術館も同様に、企業が運営している私立美術館。オールドノリタケの名品や、宮川香山の超絶技巧の作品など、常設展も見応えあり。
今回、見に来たのは『華麗なる陶人形展』です。瀬戸周辺で制作された陶器の人形を中心とした展覧会。この企画展は、十二月十五日で終了していますが、記録として記事にいたします。
レースドール
テーケー製陶所の設立者、加藤徳松氏が、シカゴでレースドールを目にしたのは昭和二十五年ごろ。その後、独自に開発した製法で、瀬戸でもレースドールの商品化に成功。
『アン王女』は、その最も手の込んだ製品。
首から上と手以外は、全て陶器のレースで覆われています。
本物のレースを陶に変えて、貼り付けていくのだそうです。レースをどうやって陶にするかは企業秘密。
こんなに細かいと、形成はもちろん、焼成も大変そう。少しでも歪んだら、簡単に割れてしまう。
『アン王女』みたいに豪奢な製品ばかりでなく、キャラものも作られていたとのこと。展示はされていませんでしたが、ミッキーやミニーのウェディング姿などもあるそうです。
頭がでかいのはご愛敬。ペコちゃんのスタイルを再現するのはちょっと難しかったのかしら。スカートめくったら、椅子の上に立ってたりするのかな。ピアノを弾いているペコちゃんは、ちゃんとペコちゃんの体形になってるんだけど。
やはりレースドールの本分は、こういう華麗な姿なのでしょう。これは上皇美智子陛下の半寿(八十一歳)を祝して制作したものとのこと。
さすがに、ハープの弦は後付けの紐ですが、柱や響板がまっすぐなのは流石。陶というのは、そもそも粘土だし、焼くと縮むので、直線を出すのは難しいのです。こんな風に斜めに力がかかる場合は特に。
テーケー名古屋人形製陶は、美智子さま大好きなのか、即位の際のお姿も作っています。
表面を粒立たせて、絹の輝きを表現しているのですが、コレはガラス質の粉末を纏わせているのかな?
焼きすぎれば、溶け切って平らになったり垂れたりするし、温度が低ければポロポロ剥がれ落ちてしまう。ただでさえ、大きいし形も複雑だから、火の回りを等しくするのも大変。よほど焼成の技術が高くないと、これは作れません。
フィギュリン
『フィギュア』はプラモデル、『フィギュリン』は陶器。
正式な区別かどうかは分かりませんが、『フィギュリン』で検索すると、マイセンやリアドロやロイヤルコペンハーゲンがヒットするし、『フィギュア』で検索すると、コトブキヤや海洋堂がヒットするので、だいたいそんな認識でOKと思われます。
フィギュアのメーカーとしてコトブキヤや海洋堂があるように、フィギュリンも光和陶器や丸山陶器といったメーカがありました。先ほどのテーケーも、そのうちの一社です。
テーケーは、フィギュリンでも釉薬をしっかりかけたものが多いようです。他のメーカーでは、釉のテカテカを避けて、サラリとした肌、服の柔らかな感じを出すためか、焼き締めが選ばれる傾向があります。
細部までしっかり作り込む形成、それを崩さないように焼き上げる焼成。技術は大したものですが、時代考証は、あまり気にされていない様子。どこの国のいつの時代か、よくわからない。
例えば、この御者の被っている二角帽、ホントは尖がった先を前後に向けて被るものなのですが、左右に向けている。コレはナポレオンが個人的にやっていた被り方。降りて来た夫人の帽子も、十九世紀末あたりの流行だけど、男性の、タイツに靴下留めというスタイルは、十八世紀っぽい?
大元は、ロココ絵画あたりなのかな? それが欧州で作られる装飾陶器の絵付けになって、立体化されて、それに倣って日本でも作られるようになった。摸写の写しのさらに孫引きといった感じ。北斎漫画の図案が、アール・デコの工芸品に使われたのと、似たようなものですね。
ノーマン・ロックウェル
まあ、そんな出所の分からない絵柄ばかりでもアレなので、正式に契約しての制作というのもあります。
アメリカの国民的イラストレーター、ノーマン・ロックウェルの作品を立体化したもの。1970年代に、瀬戸から盛んに輸出されました。
平面の絵を立体にするというのは、今ではフィギュアとかジオラマとか、普通の事だけど、当時は画期的だったのかな?
最初のガンプラが1980年だからなあ……どうだろう?
少年少女の初々しい姿が特に人気だったのか、作例も多いです。『老人と少年』とか、少年・青年・老年、それぞれのカップルの姿を現した作品とか。
それにしても、絵に描かれていない部分まで、ちゃんとノーマン・ロックウェルの画風になっているのがすごい。
ファン相手の商売で、手を抜いたりごまかしたりすれば、大炎上するのは今も昔も同じだったでしょう。それが、結果は大好評だったといいますから、たいしたものです。
ルイ・イカール
1980年代になると、今度はルイ・イカールというイラストレーターの作品を立体化した製品が好評だったといいます。
なかなか有名だったらしいけど、知らなかったなあ。
京都に美術館があるって? 瑠璃光院の付帯施設? 熱心なファンが個人でやってる系かな? そういう愛され方をする作家、大好きです。
ルイ・イカールは、アール・デコに分類される作家との事。オールドノリタケでも、アール・デコに属する製品がたくさん出ているので、そのつながりもあったのかもしれない。
それにしたって、猟犬や馬も、手足がシューッと伸びていて、女性の体も、音楽に流れるようなラインを描いていて、風をはらんだスカートや旗は、その女性の温もりや香りを広げるように、波打っている。
どれもこれも、陶で表現するのは、難しいモノばかり!
それをしっかり形にしている。
他の地方や海外との競争に、技術力で勝とうという、意欲と自信が見える製品です。
ウィスキーボトル
まあ、そういう正々堂々とした勝負ばかりしていたわけではなく、あの手この手と手練手管を使う場面もあったりして。
できの良い陶人形をバンバン輸出していたら、美術工芸品、贅沢品として、高い物品税をかけられることになりました。
そこで、中が空洞の人形の首を、引っこ抜ける栓にして、
「コレはお酒をいれるビンです」
と言い張ることにした、という。
酒のビンなら、実用品という事で、税金が安くなる。
……しかしいくらなんでも、ここまで作り込んでおいて、
「単なるお酒のビンです」
と言い張るのは、ちょっと無茶だったのでは。
『愛馬に跨るエルヴィス・プレスリー』て……
コレ、実際にお酒のビンとして使ってた人いるのかしら?
瀬戸ノベルティ
戦後に瀬戸で制作され盛んに輸出されて、この地域の復興を支えていた、これらの作品は『瀬戸ノベルティ』と呼ばれ、今でも熱心なコレクターやファンがいらっしゃいます。
中には、「MADE IN OCCUPIED JAPAN」なんて刻印を持った歴史の証人のような人形もいるのです。
こういった陶人形は、基本的に「鋳込み」という技法で作られます。粘土で原型を作って、石膏で型をとる。型の中に、泥漿というドロドロにした粘土を流し込むと、石膏が余分な水分を吸って、型に触れている部分に均一な厚みの陶土の層ができる。余分な泥漿を捨てて型を外すと、原型と同じ形で均一な厚みの、生素地が出てくる。それを焼いて作るので、もともと中空なのです。
食器や碍子などを作る際にも使われる技法ですが、特に瀬戸は、蛙目粘土という原型をつくるのに適した土があった事もあり、この手の人形や置物の製造が盛んでした。
例えばこの時期だと、神社などで干支の置物がズラリと並びますが、アレもだいたい瀬戸製です。初詣のついでにでも、手に取ってみてください。
瀬戸ノベルティ以前の陶人形たち
横山美術館は、日本から輸出された陶磁器を展示しているので、瀬戸ノベルティ以外の品も多数展示されています。
以下は常設展からのピックアップ。
オールドノリタケの展示室にあるモリムラドールは、第一次世界大戦でヨーロッパからのビスク・ドールの輸出が停止した際、日本からアメリカ等に輸出されたものです。
……こんなところにも歴史の証人が。
成瀬誠志は明治前半の薩摩焼の名工。
薩摩焼は元々、島津義弘が朝鮮から連れてきた陶工から始まり、藩の御用品として京焼などの技法を取り入れながら発展しました。1867年のパリ万博で薩摩藩は一国として参加し、薩摩焼を展示したことから、盛んに輸出されるようになったとのことです。
隙あらば歴史が絡んでくるのも面白いですね。
成瀬誠志は薩摩焼の陶工ではありましたが、出身は美濃焼の窯元で、自身が窯を開いたのは東京でした。当時、東京では輸出陶磁器の生産が盛んで、瀬戸出身の井上良齋も隅田川沿いに窯を開き、瀬戸の蛙目粘土の造形力を生かして、凝った形の作陶をしていました。
この手の、超絶技巧と奇想天外な作風というと、やはり外せないのは宮川香山。
宮川香山は、京焼の窯元出身でしたが、明治四年に横浜に真葛焼の窯をひらいて、高浮彫などの逸品を制作しました。
色絵の京焼はもちろん、薩摩焼風の錦手、青磁から釉下彩まで、何でも作れたという超人。
この日は、前半に徳川美術館の『とんがり美術』展に行っていました。結果として、圧倒的な個性をトコトン浴びる一日となりました。
来年の横山美術館は、超絶技巧に特化した企画展を計画しているとのこと。人形、造形にとどまらず、さまざまな題材やジャンル、絵付や名古屋盛りと呼ばれるイッチン技法まで、職人技の集大成の展示となりそう。楽しみでたまりません。