名都美術館『旅する堀文子』後期展示
先日、名都美術館の『旅する堀文子・スケッチに刻まれた人生』前期展示について記事を書きましたが、こんどは後期の展示のレポートです。
名都美術館『旅する堀文子・スケッチに刻まれた人生』後期展示
今回はスケジュールが合わず、学芸員さんのギャラリートークには参加できませんでした。その上、会期は九月二十九日まで。あわただしい紹介になりますが、ご容赦ください。
小展示室のスケッチ色々。
『私を生かした手』
大病を患い、入院していたころのスケッチ。誰の手、という説明はなかった。歳をとって、脂が落ちて筋の浮いた甲を、薄い皮膚が手袋のように覆っている。でも筋肉はまだあるみたい。老いと力強さを同時に感じる、不思議な手。
『画家の手』
本人の手、ということだろう。まだまだ描くぞという意志が『画家の手』というタイトルに込められている。しかし、上の『私を生かした手』もそんなんだけど、ちょっとつたないようだ。線が揺れているように見える。力が入らないのか、リハビリ中に描いたものなのかな?
イタリアの陶器のスケッチ。
タイトルはなかった。どことは言わないけど、なんだか「本当にこんな形?」って気分になる。あまりキチンと描いていないのかな、とすら思ってしまう。スケッチの横には、細かい色味や構造のメモがいくつもあるので、しっかり見ているのは確か。
後から見て、ここはこんな色だった、あそこはこういう構造だった、って思い出せればそれでいいって感じ。鉛筆を使う事は二の次、しっかり見て、構造や質感を読み解き理解する訓練のようだ。
ネパールの人々。
これもタイトルは無し。子供の絵が多い。顔はしっかり描きこんでいるけど、衣服とかは単純な輪郭線プラスアルファ、くらいの描写。それでもストールの粉っぽい質感や、衣類のカサカサに乾燥した感じがハッキリ伝わってくる。
赤ん坊を抱いて、体に巻き付けたショールの毛羽立った感じや、帽子から垂れ下がる毛糸の房の多いこと、鉛筆でクッキリ輪郭が引かれているはずなのに、フワフワと毛羽立って、陽射しにぼやけているように見える。
子供だけじゃなく、周りの空気まで描かれているみたい。
姥百合と落ち葉たち。
姥百合は既に枯れて、今にもはじけて種をばらまこうというところ。カサカサの実が少し開いて、その間に柔らかそうな綿毛が伸びている。鉛筆一本で、筆数も少なく、画面が白いのに、その質感も綿毛の細かさも、皆しっかりと伝わるように描かれている。
画面にのせる情報を、どれだけ吟味しているんだろう?
描くべきモノを描くだけじゃない、描かなくてもいいものは描かない。これは大変に難しい。
落ち葉たちも、木の種類の違いによる形の違いはもちろん、変色した部分、破れた部分、虫に食われた部分など、どれ一つとして同じものはない。
そしてやっぱり、落ち葉のあのカサカサと乾いた質感を出すために、筆数を抑えて、葉を白く見せている。
『紫の雨』
この美術館の収蔵品で、最も好きな作品。別アカウントで書いた文章を再録したいと思います。その時は、ちょうど藤の花の季節で、本物を見てきた後だったのでした。
『三本の樹』
パッと見は二本の樹に見える。でもよく見ると、小さい樹の方は幹が二本あって、重なりあって一本に見えてたみたい。大きい樹と合わせて三本……と思っていると、小さい樹の幹は四本ある? あれ? 幹じゃなくて地面かな。そう思って、さらに見ていると、葉っぱの描き方が、三種類であることが分かる。背景は赤くて、夕暮れみたいなのに、葉っぱは日の当たる側が、白くポーッと全体的に光っていて、それ以外の部分も萌黄色というか、明るく薄めの色味で描かれている。
樹の幹も白く、木陰なのにやや影が差す程度。
そんな光に満たされたような樹の姿。
ただ、土はドロリとした濃い色をしていて、赤い背景も黒い斑が入って、なんだか不穏な雰囲気なのがちょっと怖い。
身を寄せ合い、あるいは独りで、光をまとって立つ樹の姿がいやがおうにも輝かしく見える。
『霧』
三本の樹が、今度は霧の中の影のように滲んでいる。
背景と樹の境目もあいまいで、霧は白くて温かみがあって、明るい乳白色の光が、まるで触る事ができるもののように、絵の中に満たされている。
絵の前に立つだけで、まるで、まどろんでいるような心持になってしまう、不思議な作品。
『落日』
浜の木々は細かく描きこまれ、写実的なのに、落ちる夕陽は陽光の色の同心円の虹のよう。海面に映える光も、金の帯のよう。その境目に散らばるさざなみの輝きが、ようやくこの世の物に見えて、記号と写実を繋ぐ境界線になっている。
確かに太陽は光そのもので、形がないから、記号で描かれるのも当たり前。落日は、そんな形のない光が、形のある海や地上に触れるひと時。形あるはずの波や水平線が、あふれる光に形を失う時。そんなイメージ。
『名もなきものシリーズ 土筆とすぎな』
土筆やすぎなの描写が素敵なのは、もう言い尽くして言葉がでてこないんだけど、背景が、下に土の色の帯、上に空色の帯、中央に太く黒い帯と、どこかの国旗みたいに、一直線に色分けする大胆さがとんでもない。真っ黒なバックに浮かぶ土筆、すぎなの薄緑は瑞々しくて、スンスンと伸びる勢いを見せつけるよう。空色の帯に、ツンと小さく開けられた穴のような……これは月かな? 明るい空色がバックなのに、黒い帯のせいで夜に見える。それどころか、ひんやりした早春の空気、金色の月の光までも感じる。
『名もなきものシリーズ 檜扇水仙』
地面はかすかに紺の気配がする墨の色、その右に川の流れのように白金が差し込んで、さらに奥には黄土色が丘のように盛り上がり、画面半分近くを占めるのは、梳きたての和紙のような、卵の殻のような、薄い黄色。おだやかな日中の光を思わせる。初夏の涼しい水際の空気か。
継色紙のような背景のみで、これだけの演出がされていて、その上に描かれた水仙や草花は、そよ風に小さく揺れているように見えるのでした。
『名もなき草たち』
六色の継色紙のような背景、地面は見えない。白くて細い茎がクルクルと絡み合うように画面を張っていて、葉っぱと実、青と黄色と赤と白の大きさも様々な花が、星座のように固まったり、散らばったりしている。
川辺や山の辺といった、具体的な場所は、もう示されない。ただ植物だけがある景色。
『楽園に遊ぶ』
楽園というタイトルなのに、主役は野の花。写実的に描きこまれている。その背景に、孔雀や瑞鳥、大輪の花など、いかにも極楽の生き物のようなモチーフは、朱に金字で絵を描く、金襴手で描かれている。いうならば、主役と脇役が逆転している絵なんだけれど、不思議と作為を感じない。
ここまでの沢山の草花のスケッチが、ここに集まっているみたい。
『離山凍る』
画面下の樹木の枯れ枝は、まるで助けを求めるように伸ばされている。靄か霞が、白い虹のように山塊の下半分を渡っている。左から右に、流れ落ちていることが分かる。山塊に覆いかぶさるような森。てっぺんにちょこっと突き出した、山頂。画面右に、ほぼ影になっている太陽。月かもしれない。小さな雲の破れ目があって、薄く青い空が見えている。
それ以外は、画面のどこをとっても、ほぼ黄土色のヴァリエーションとしか言いようがない。
冬の冷たく乾燥した様子。刺激や乾燥を、感覚で捉えられるのはうらやましい。
学芸員トーク聞きそびれた。
堀文子氏の作品を前にすると、次から次へとイメージが溢れてきて、それはとても心地好くて、それをなんとかお伝えしたいのですが、言葉にするのが難しくて、それがとてももどかしい。
特に大好きな『紫の雨』など、色々書いてはみたのですが、以前に別アカウントで書いた文章以上のものができず、再録となりました。
堀文子氏の作品から感じるのは、とても単純で純粋な気持ちだから、文章が長くなればなるほど離れていきます。前回展示の際、お話をしてくださった学芸員氏は、堀文子氏の魅力を、短い言葉で伝えてくださいましたが、後期展示ではスケジュールが合わずに聞くことができませんでした。残念。
これからも、このnoteでの美術展のレビューや読書感想文などで、精進してまいります。お付き合いいただける方には感謝しかございません。今後ともよろしくお願いいたします。
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