藤井達吉『墨色百景』


碧南市藤井達吉現代美術館コレクション展

館名に冠された藤井達吉氏の作品の数々を、
回を重ねながら展示していくという企画。
今回は第二回、墨色を生かした作品の特集ということです。
第一回は見逃したけれど、これから順々にレポートしたいと思っています。

何といっても、藤井達吉翁は私のイチ押し工芸家ですので、一人でもファンになっていただければと願っております。

『立葵』

立葵

浅彫りのレリーフのように盛り上がっていて、陰影がついているので、一見、絵なのかどうか迷うほど。
単なる墨絵ではなく、朱漆、黒漆を混ぜた墨で描かれているので、葉や花弁にぽってりとしたボリュームがついています。
なんか光沢もあるのは、金銀泥なのかな?

表面の質感も、トロリとして、椿のあの照りのある艶っぽさが生々しく感じられます。
絵自体も、逆N字型に花が流れ、手前の花は陽があたったように明るく、葉も手前から奥にいくほど小さくなって遠近感を演出しています。
その遠近感が、まっすぐ伸びた茎に繋がって、すうっと上に流れていくような、足元から空へ視線が繋がっていくような軽やかさで、漆のモッタリとした感じから、重さを消して存在感に変化させています。

画紙は美濃紙なのかな? ちょっと分厚いような気がする。
漆は紙に染み込みづらいだろうし、収縮率も違うはずなのに、剝がれたり割れたりしていない。
やはり、工芸家としての経験から、漆の性質を知り尽くしているのかな。

立葵は、別名、梅雨葵。
梅雨の始まりとともに、下から咲き始め、一番上の花が咲いて、花の季節が終わる頃、梅雨が明ける。
そんな季節の花であることから。この時期に相応しい絵。
こういった、モチーフや使う技法、時にジャンルすら、藤井達吉翁は季節に合わせて変えていく。
粋というか、文人趣味というか、そんな、茶人のような感性すら持っている。
なんともすさまじい事だ。

『春夏秋冬』

春夏秋冬(春から見る)
春夏秋冬(冬から見る)

サイズ的に、茶掛けなのかしら。

春の風景が残雪の富士。
この春は、季節の春とも、新春の春とも、どちらにも受け取られるのは面白いですね。

夏の風景は湖に映える新緑の山。
墨色を強く推していますが、夏の茶花といえば、木槿や鉄線、芍薬に半夏生、撫子と、色がついても薄めの桃色藤色、ともすれば白い花も多いので、なるほど、掛物は墨色の強い方が合うでしょうね。

秋の風景は、山が増える。山だらけ。
主役のはずの紅葉が、敷き詰められたようになっていて、迫りくる山たちに踏まれちゃいそう。
空気が澄み切った秋には、山の姿もクッキリとして、遠い山も近くに見えます。まさにそんな現象。

冬は、野焼きでもされたのか、つるりと平たくなった浅い丘に、冬枯れの樹が所在無げにポツポツと。
冬の茶碗は、冷めないように深い筒茶碗になりますが、さて、この丘は、夏の平茶碗を伏せたような形です。
そのあたり、形の対比を意識しているのかな、というのは考えすぎでしょうか?

『志な乃の瀧』

志な乃の瀧

瀧ではなく、左右に迫る岩山の方が存在感が強い。
肝心の瀧は、ど真ん中でへし折られていて、左右の岩山に生える木々さえ、瀧を弄るように絡みついている。
始まりでは白かった瀧の水が、滝つぼに落ちるあたりでは、まるで苦悶の表情を浮かべてるみたいな、黒い影を刻まれている。

『那智の瀧』

那智の瀧

こちらの瀧は、左右に山があるのかないのかさえ、定かでない。むしろ、瀧そのものが、森からスゥと、静かに立ち上る煙のよう。左右の山肌のはずの影も、その煙をとりまく霧のよう。瀧というものの持つ、岩山の険しさはこちらにはなく、ただ神々しさが残ってる。
これじゃ白すぎるとでも思ったのか、まるで瀧の音を書きつけたような文字で、歌が書かれている。

「久万能地を け布もゆ九な里 散美堂連の
あ面にぬ連川ゝ 非東李堂非春類」
「熊野路を 今日も行くなり 五月雨の
雨に濡れつつ 独り旅する」

当て字というのかな。「久万能」だと「熊野」よりも風景が多彩のように思われるし、「散美堂連」なんて、雨粒が堂宇に弾ける景色が目に浮かぶよう。
正しさにこだわる必要はありませんね。
むしろ、画面映えとイメージ先行で文字選びする方が、万葉仮名からの美意識に沿っているのかもしれません。

『白地松葉散し着物』

白地松葉散し着物

訪問着に墨描きしたもの。金泥も使ってるって書いてあったけど、特に光沢は感じない。松葉は冬の柄だけど、帯や羽織の組み合わせによっては通年着こなせるとか。
シンプルだから、襦袢内襟帯羽織は自由自在に選べるというか、むしろ映えそうですね。一つの作品ではなく、使うものとして創られたものなので、見る方も、そこを色々と想像するのが楽しくて仕方がない。

『白地梅絵着物』

白地梅絵着物

中振袖というのが何か知らなかったのですが、成人式とか、結婚式に呼ばれた時に着るレベルの振袖だとか。
裾の方は幹も太く、枝の密度も濃いけれど、上に行くほど枝の間の空が広くなり、明るくなっていって、花も小枝も、生地の隅々まで広がっています。
おそらくは実際に着た時に、梅の樹をそのまま纏ったような姿になるのでしょうか。派手ではなく、爽やかな華やかさがあります。
見ているだけで、焚き染められた香が薫ってくるみたい。

『雨讀庵時雨帖』

雨讀庵時雨帖(その1)

雨に打たれる柳の樹。
扇面を模した画面だけに、風に吹かれた姿。

「夕しくれ やなき尓かけて 過き由ける
鳥の遠音ハ 何登りなるか」
「夕時雨 柳にかけて 過ぎ行ける
鳥の遠音は 何鳥なるか」

柳にかぶせて書かれた歌は、やはり風を感じるもので、吹かれるように飛び去った鳥の鳴き声も、雨音にかき消されて判然としない。そんな歌。

「向つ丘の 松原の中能 楓桜
若芽尓はゆる 夕陽尊し」
「向つ丘の 松原の中の 楓桜
若芽に映ゆる 夕陽尊し」

扇面の横に書かれた歌は、夕陽が差しているけれど、これは止んだということなのかな。
柳にかけて、松、楓、桜と植物尽くしとは洒落ていますね。
柳は夏、松は冬、楓は秋で桜は春なのかな。

雨讀庵時雨帖(その2)

雨風に吹かれる柳という、中景の具象物を描いた扇面と対にして、薄くなった雨雲が高くなった空と、下は水面?
遠景と近景になるのかな。
柳の扇面と裏表にして、透かせば一枚の絵になるのかしら。

「夕暗の せまり来る登里 水鳥の
しき鳴くなるハ 時雨来るかや」
「夕暗の 迫り来る鳥 水鳥の
鴫鳴くなるは 時雨来るかや」

夕にしだいに暗くなって、シギが集まって鳴いているのは、時雨るのが近いのか、といった意味でしょうか。
まだ降っていないの? 鳥も正体が分かってる?

「三畳能 茶室者うれし 寂ゝと
春雨きけ者 た悲をし曾おもふ」
「三畳の 茶室は嬉し 寂々と
春雨聞けば 旅をしぞ思う」

扇面を外れたところに書かれた歌は、既に雨が降っていて、茶室の中でその雨音を聞いているという趣旨。
「旅」を、「た悲」などと書いていて、ただその一文字で、旅行者の孤独感というか、心もとなさがピリッと効いて。

二枚の扇面に、時間の経過と、雨の景色と、その間に過ごす人の心情の、さまざまな景色が浮かんでは消えるのでした。

『浄焔』

浄焔

タイトルの『浄焔』は仏教用語で、神仏に捧げる神聖な炎のことだとか。さらに解説によれば、陶芸窯の炎がモチーフになっているとか。
グルリグルリと、いくつも巻いている渦は、無数の瞳のようで、吹き上がるように伸びる火の舌と合わせて、不動明王の顔のように見えてくる。中央に、白磁の梅瓶が堂々と座しているから、なおさら不動明王図そのもの。

美しい陶を、神仏として描くというのは、やはり工芸家の魂だ。白磁の瓶ひとつに、どれだけの魂かこもっているか。
それを知っている者にしか描けない画だ。

『ほのお』

ほのお

『浄焔』の梅瓶が不動明王なら、こちらの胡瓶は、観世音菩薩かな。光背は如来レベルだけど。観世音菩薩なら浄瓶?
墨の使い方とか、扇か虹かトンネルのような構図とか、光が満ちてくるような、光の方に導かれるような、そんな画。
解説によれば、正倉院御物の胡瓶あたりが近いとか。
胡瓶は鳳凰の頭を持つ瓶。
そう聞くと、光の環が翼のようにも見えてくる。
不浄を祓う『浄焔』に対し、慈愛を与える『ほのお』。
そんな一対と感じました。

解説について、ちょっと奇妙に思ったのは、墨の黒の印象が強い『浄焔』には紙本着色の上に金泥が使われているのに、光を感じる『ほのお』は、単に紙本着色としか書かれていない。
これも不思議というか、藤井達吉の技とセンスの賜物というか。

『鉄釉椿文大皿』

鉄釉椿文大皿

造形は亀井清市という、藤井達吉が主宰していた瀬戸作陶協会メンバーだそうです。石皿という、瀬戸の伝統的な器形。
本来、日用雑器として大量生産されるもの。
焼き上げる際、数をとれるように重ねて窯入れする。釉薬で貼りつかないように、間に目土を入れる。
その跡、目跡が七つ残っている。

タップリと弁柄を含ませた筆を、大胆に走らせ、串でそれを鋭く掻くなんていう、勢いのある描法で、冬に勝つ椿の生命力、雪の中にドンと現れるような存在感を、皿を覗き込んだ者に突き付けてくる。
クルリと縁どって流れ落ちた、呉須の青が、冬の氷のような、新春の青空のような。
そんな絵付けの妙もすさまじいのだけど、なんといっても効いているのは、小さな釉の雫となった目跡。
パラパラと椿の一枝を取り巻いている。
あるものは花弁に、あるものは葉に、茎に、星のように光っている。

上手い絵付け師というのはいくらでもいるだろうけど、目跡までも使いこなす者なんて、そうはいない。
皿の上に現れる全ての形象を、表現とする貪欲さ。
こういった点も、工芸家としての魂がそうさせているんだろうなあ。

ただ、椿の美しさや存在感のために、そこに散る朝露の雫は必須だと気づいた、自然と人間の感性を見ぬく、芸術家の眼差しも、確かにここにある。

工芸家であり、芸術家であること。
時には対立するかのように思われる、この二点だけれど、藤井達吉翁の内部には、まったく同じものとして存在していたらしい。

写真OKと「ポケット学芸員」

この展示は、写真撮影OK、ネットUPもOKという、大変太っ腹なものだった。監視員のお姉さんに確認済。
監視員のお姉さんは、「ポケット学芸員」なるアプリも教えてくれた。
メニューから「地域」「美術館名」「作品名」とたどっていけば、その作品の解説文を読み、必要なら音声で聞くこともできる、とのこと。もちろん、掲載されていればだけど。
掲載されている施設名も作品名も、まだまだ少ないので、今後に期待したい。

今回のこの記事を書く際、どちらにもお世話になりました。
写真と、公式の簡単な解説があると、こんなにも文章が書きやすいものなのか、とチョット感動しちゃった。

また新規の投稿いたしましたら、Twitterにてご報告いたします。私の記事がお気に召したのでしたら、どうぞフォローお願いいたします。


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