見出し画像

第1章 私のキャリア遍歴(1)−非高校から大学・大学院へ(4)博士課程へ進学

何とか二次募集の入学試験に合格し、博士課程後期へ進学することができました。1999年4月入学でしたが、先にも書いた事情で入学日は4月中旬となりました。

博士課程に進学すると、早速授業がありました。ゼミと授業で忙しい日々の始まりです。

一方、従来から博士課程を設置している多くの大学では、博士課程においては授業の履修を求めず、博士論文の提出のみで修了を認めるところが多いように思います。

たとえば、早稲田大学大学院社会科学研究科のホームページには、博士後期課程の履修方法について次のように書かれています。

博士後期課程は、授業科目について必要単位はありませんが、指導教員の指導と学生自身の自発的な研究活動によって成り立っています。そのため、研究に十分な時間を割いて、学位論文の完成に専念しなければなりません。ただし、研究上必要となる場合、指導教員の許可を得たうえで、修士課程に設置されている講義科目を履修することができます。

横浜国立大学大学院国際社会科学研究科では、発足当初からコースワーク(授業科目)が開設されており、修了には、講義科目と演習(ゼミ)による単位修得、および学位論文の提出が必要とされました。

現在の国際社会科学府では、博士課程前期(修士課程)と後期が一体的となった「一貫博士コース」が設けられており、とりわけ優れた業績を上げた者は、3年間(前期2年を含む)の在籍で博士号が取れるようになっています。

また、優れた業績を上げた者は、博士課程後期のみ1年間の在籍で博士号の取得が可能です。他大学の修士課程または博士前期課程等から編入してきた院生も、1年間で博士号を取れる道が開かれています。

とは言え、当時の私は研究の基礎力が博士課程に耐えうるレベルに到達していたとはとても言えないレベルでした。それぞれの専攻別にワークショップがあり、そこで1回以上の発表が義務付けれていたほか、ゼミでの発表も度々あり、その度に酷評される始末でした。

当時は2年次に中間審査、3年次の前期に予備審査があり、予備審査が通ると、12月に最終審査に進むことができました。私はこの予備審査で不合格を突き付けられて、苦しんでいたのです。

当時、予備審査までは、主査である責任指導教員1名プラス副査の指導教員2名の計3名による審査が行われていました。しかし、私の場合、責任指導教員のゴーサインが出ないまま、標準修了年限の3年を超えて、4年目に突入してしまいました。

それどころか、まだ未熟であるとの理由で、学会発表はおろか、学内紀要にも論文を載せることすら許されず、3年間で上げた業績は実質ゼロという悲惨な状況でした。

そんな中、責任指導教員自身があるトラブルを起こして、我々ゼミ生は所属を変えるか、そのまま留まるかの選択を迫られることとなりました。これまで、責任指導教員は指導らしい指導をせず、ただ私の書いた文章を酷評するだけで、不満が鬱積していましたので、迷わず責任指導教員の変更を大学当局に申し出て、受理されました。

ゼミは4年次の後期に変わりました。新しい責任指導教員は、これまで副査の指導教員として、私の論文指導を担当して下さっていた先生で、修士課程よりお世話になっていました。それでも、先生は「これからゼロベースであなたの論文を読まなくてはならないから、今年度中の修了は無理です。半年間修了は延びることになるけど、がんばりましょう」とおっしゃいました。私に不満な点はなく、「はい。全力で取り組みますので、何卒よろしくお願い申し上げます」とお答えしたことを今も思い出します。

先生の指導を受けて、これまでの研究を抜本的に見直し、「企業にとっての価値」概念をベースにした不動産の時価評価モデルを考案しました。また、滞っていた紀要『横浜国際社会科学研究』への論文掲載も実現させ、3本の論文を掲載することができました。

こうした業績が評価されて、予備審査を通過。最終審査を受けるべく、『事業用不動産の再評価に関する研究』と題した学位請求論文を提出しました。

そして、5年目の2004年6月頃に開かれた最終審査では責任指導教員プラス指導教員の計3名のほか、2名の外部審査員が加わり、5名による審査を受けました。厳しい質問が相次ぎましたが、外部審査員の京都大学教授の先生から「課程博士の水準に達していると思います」との大変有り難いコメントがあり、無事最終審査を無事パスすることができました。

2004年9月30日、修了式で博士(経営学)の学位を授与され、7年半に及んだ大学院生活にようやく終止符を打ちました。

博士課程5年目となった2004年度当初は、学位取得がほぼ内定していたこともあり、4月から新たなアルバイトを始めていました。大手資格予備校が作った大学の会計コース開設のための準備を担当するスタッフや、専門学校の非常勤講師等をして食いつなぎました。

話は前後しますが、2004年6月の最終審査を通過し、博士号取得が決まり一息ついていた7月頃には、広島県内の私立大学から書類審査通過の書面を郵送で受け取りました。ただ、面接は9月17日と2ヶ月も先のことでした(当時の面接通知メールが奇跡的に残っており、詳細な日付を書くことができています!)

面接当日、早起きして、羽田空港から広島空港までJAL便で飛び、広島空港からはタクシーで大学へ向かいました。交通費は概算払いで全額支給して頂きました。大学では面接待ちの方たちが待合室で待機しており、面接前に少しだけ世間話を交わしました。

面接終了後、面接を受けた男性の先生がわざわざ待っていてくださり、もう一人の女性の先生ともども空港と駅まで車で送って下さるという有り難いご提案を受け、ご厚意に甘えて、JRの駅まで送っていただくことができました。

車中では、また世間話に花を咲かせました。男性の先生は四国の国立大学の専任教員で、昼食を取る時間もないほどの忙しさに嫌気が差して公募に応募したとのこと。また、同乗した女性の先生は、北海道の私立大学の専任教員でしたが、温かい土地で暮らしたいとの希望で公募に応じたとのことでした。

JRの駅からは、山陽新幹線で東京に向かいました。JR西日本の500系に初めて乗車したことも忘れられません。

結果通知は1週間ほどでメールで届きました。予備校の勤務後、メールをチェックすると、「ご就任についてのお伺い」と書かれた文面が目に飛び込んできました。これで何とか研究を仕事にすることができたと、心からホッとしたことを思い出します。次年度まで半年間のブランクも、乗り切る意欲が湧いたものでした。

年が明け、2005年3月中旬に、大学の職員寮に引っ越しました。関東以外に住むのも、一人暮らしも、ともに初めてでした。

(続く)

著者プロフィールはこちらへ:https://note.com/leoliner/n/nf8605238dfee

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?