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黄昏のエチュード

黄昏どきの風景も哀しいばかりではありません。
時には美しく輝くこともあるのです。


1.恵里子先生

「あ、片岡先生、はじめまして。私、川口あゆみの父親です。」

ドアが開くと同時に、深々と少し薄くなってきた頭を下げて挨拶をした川口誠三は、顔をあげて、玄関の中に立っていた縁なしの眼鏡をかけた背の高い女性を見た瞬間に息を飲み込んだ。

(なんて綺麗な人なんだろう。)
「こちらこそ、はじめまして。あ、どうぞお上がりください。あゆみちゃん、きょうはお父さんが一緒で良かったね。」
あゆみは恥ずかしそうに笑って、誠三の後ろに隠れた。誠三はあゆみのこんな笑顔を見たのは久しぶりのような気がした。
「どうぞ、こちらです。」
ダイニングキッチンを通って、奥のピアノの置いてある部屋に誠三とあゆみは通された。きれいに整理されたその部屋は、ベッドとドレッサーがあり、片岡先生自身の部屋のようだった。誠三が一人暮らしの女性の部屋に入ったのは10年ぶりのことだった。
そう、彼の亡くなった妻、加奈子がまだ独身だった頃の。

「あ、あの、わたしもご一緒して、よ、よろしいんでしょうか?」
会社の重役の前でもこんなに緊張した事は、誠三には近来ないことだった。
「ええ、もちろん。よろしかったら、一緒に、歌を歌って下さい。」

片岡先生はアップライトピアノの蓋を開くと、「じゃあ、『線路は続くよどこまでも』を歌いますよ。」といって、譜面を開いて明るくピアノを弾きはじめた。美しい声だった。
いつもは内気でおとなしいあゆみも眼を輝かせて、大きな声で元気良く歌っていた。誠三はあっけに取られてふたりを見ていたが、先生が「さあ、お父さんもご一緒に!」と言ったのをきっかけに、(小さい声ではあったが)一緒に歌いはじめた。

彼にとっては突然のことだったのだが、徐々に心暖まる喜びを感じていった。
片岡恵里子は、誠三の従妹の寺島理恵の高校時代の同級生だった。先月からあゆみにピアノを教えてもらっていた。
普段、あゆみは小学校から帰ると、近所に住む理恵の家に行って、父親の誠三の帰りを待っているのだった。繊維メーカーの労務係に勤務している誠三は、仕事が終わると理恵の家にあゆみを迎えに寄って、家に連れて帰るというのが習慣になっていた。理恵にはかつてタレントをやっていた関係で知り合ったテレビ局勤めの夫がいて、3歳になる男の子もいるのだが、勤務が不規則なために、あゆみを預かる事を快く引き受けてくれていた。
あゆみはとてもおとなしい子で、ひとりで小さな声で歌を歌いながら、人形で遊ぶのが好きだった。理恵は母親を亡くしてから、とても内気になったあゆみのことを心配していた。

理恵はあるとき誠三に、
「せいちゃん、あゆみちゃん時々歌を歌ってるんだけど、とても上手なの。普段とてもおとなしいんだけど、ピアノ習わせてあげたらきっといいと思うよ。私の友達で、出戻りなんだけどバイトでピアノ教えてくれる子がいるから、頼んであげようか?昔、一緒にバンドやってたこともあるんだ。」
と言って、あゆみにピアノを習わせる事を勧めたのだった。
いつもは、あゆみをひとりで来させていたのだが、今日、誠三は初めて一緒に恵里子のマンションを訪れたのだった。

そして、彼は、
(こんなに気持ちがときめくなんて、どうしたんだろう。)
と、にこやかに歌う恵里子に一目で 恋をしてしまった。


2.誠三の決意

誠三は決意した。
その晩風呂から上がって鏡に映るおのれの姿を見た時、今まで気にも留めていなかった、たるんだ胸の肉、胴回りにたっぷりと付いた脂肪に愕然とした。
(髪が薄いのはやむをえないとしても、まだ、43歳なんだから、この体じゃあいかん。よし、この不格好な身体をなんとかするぞ。)
それから、彼の肉体改造のためのトレーニングが始まった。

毎朝、起きるとすぐに腕立て伏せと腹筋をやって、そのあと外に出て軽くジョギングというメニューだった。最初は腕立て伏せも腹筋も20回がやっと、という情けない体力であった。しかし、2週間毎日続けていたら、両方とも何とか30回までできるようになってきた。

数日後、会社の契約しているスポーツクラブに行ってみた。ジムとプールがあったが、彼はジムで徹底的に筋力トレーニングをやった。そして、終わった後でサウナに入り、体のなかに溜まっている脂肪を燃焼させることに執念をもやした。その成果は次第に表れてきていた。スーツのズボンのベルトの穴は2つきつめにしなければならなくなっていた。

2ヶ月経った11月のある日、会社で部下の女性が書類を持ってきてくれた時に、
「係長、最近なんだかカッコ良くなりましたね。なにかいいことあったのかな?」
と言われて、赤面しながらも大いに満足した。

そして、その日の晩はあゆみのピアノの日だった。あの日以来、久しぶりに誠三も一緒に行く事になっていた。誠三は5時20分のチャイムが鳴ると同時にオフィスから駆け出していった。

「こんばんは。」
誠三は緊張しながら、恵里子先生の家のドアを開けた。
「こんばんは。あゆみちゃん、今日はお父さん来てくれたんだ。よかったね。また、歌を歌おうね。」
「うん。歌おうね。」
あゆみは明るく答えた。

「川口さん、この前一緒に来て下さった時に、みんなで歌を歌ったでしょ?あの事が、あゆみちゃんとっても嬉しかったみたいで、また、みんなで一緒に歌いたいな、ってずっと言ってたんですよ。」
恵里子はそう言うと、「さあ、どうぞ。」と、あゆみの手を取って二人を招き入れた。

「あ、ああ、そうだったんですか。・・・それは、あゆみだけじゃなくて、私も嬉しかった、です。」
喉がかわいた感じでうまく喋れなかったが、誠三はやっとそう言うとコートを脱いだ。
恵里子はさりげなくコートを受け取ると玄関のコート掛けのハンガーにかけた。そして、優しい微笑みを浮かべて、
「それじゃあ、今日も楽しく歌いましょうね。」
と言った。

その日も3曲ほどみんなが知っている曲を歌った。なかでも、「かえるの歌」の輪唱では誠三がどうしても他のひとにつられてしまって失敗ばかりであったが、それもまたあゆみには楽しく、みんなで大笑いをしながら歌った。
その後は絶対音感を養うための聴音をやったり、恵里子がゆっくり弾くメロディを譜面に書き取るという練習をやっていた。誠三は2ヶ月であゆみがこれほどできるようになるとは思っていなかったので、感心するとともに、従妹の理恵の意見にしたがって、恵里子先生のところに来させたことを本当に良かったと思っていた。

こどものバイエルの練習も終わり、楽しい30分間はあっという間に過ぎていった。
「じゃあ、今日はここまでね。ここを練習してきてね。」
練習といっても、あゆみはピアノを持っていなかった。いつも、理恵の家の電子ピアノを借りてヘッドフォンを付けて練習するだけだった。

「あ、あの、先生。ピアノ、私も一緒に習っていいでしょうか?そうすれば、ピアノを買って、ふたりで弾けると思うんです。」
誠三としては少しでもこの時間が長く続けばいいと思っていたので、思わず口をついて出てしまった言葉だった。一瞬の間はあったものの、
「川口さんも、ですか? それは、とってもいいことだわ。ね、あゆみちゃん、良かったね。」
と、恵里子はしゃがんであゆみと同じ視線の高さになって頭をなでてあげた。あゆみは本当に嬉しそうにうなずいていた。

誠三の顔は紅潮して、喉はからからになっていた。
(ピアノなんて触ったことも ないんだけど・・・。)


3.黄昏のなかの幸せ

「ピアノを買おうと思うんだけど。」
誠三は次の日の晩、理恵の家へあゆみを迎えに行った時に、彼女に相談した。
「あら、うちので良かったら、使っていていいのよ。」
「いや、そうじゃなくて、その・・僕も習おうかと思って。」
「えっ。・・・せいちゃんが、ピアノ?あら、どういうわけ? ははあ、さては恵里子に惚れたな?」
図星だった。誠三は真っ赤になってしまった。

「彼女やさしいし、美人だもんね。惚れない男はいないよね。で?」
「いや、ピアノっていってもどんなのが良いのか、見当が付かないから、理恵に買いに行く時付合ってもらえないかと思ってね。昔、ピアノやってたじゃないか。」
「せいちゃん、それは頼む相手が違うわよ。でも、せいちゃんのその様子じゃ、自分じゃ言えないか。よし、わかった。わたしが恵里子に頼んでみるね。」
「ちょ、ちょっと、待ってくれよ。僕はそんなんじゃなくて・・・。」
と、誠三が言った時にはすでに理恵は電話をかけていた。
「あ、もしもし、恵里子?理恵ですけど、こんばんは。あの、今度の日曜、暇ある?昼間なんだけど。大丈夫?そう、それなら、ちょっと付合って欲しいんだけど。ピアノを買いたいって言ってる人がいるのよ。何がいいかわからないんだって。誰かって、わかってるでしょ。いまどきの高校生よりも純情なおじさんよ。そう、・・いい?良かった。断られたらきっと海辺で夕日に向かって走っていっちゃうところだったよ。ふふふ。それじゃあ、11時に迎えに行かせるわ。じゃあね。」
理恵は一気に用件を伝えると、電話を切って、11月だというのに汗ばんでいる誠三のほうに振り返った。
「OKだって。彼女、うれしそうに笑ってたよ。」
理恵はそう言ってウィンクした。

次の日曜日、誠三はあゆみをつれて恵里子の家を訪れた。
「おはようございます。」
必死でリラックスしてそう言ったものの、よりいっそうぎこちなくなっていた。
「あ、おはようございます。すぐ、参りますから少しお待ち下さい。」
シックなダークグレイのツーピースは、普段着と違ってよりいっそう恵里子の美しさを引き立てていた。彼女は薄手のコートを手に持ってハイヒールを履くと玄関から出てきた。
「さあ、行きましょう。」
恵里子はあゆみの手を取ってエレベータホールの方へ歩いていった。
誠三には、あゆみのうれしそうな姿は、かならずしもピアノを買ってもらえるからばかりではないような気がした。

地下鉄に乗って銀座まで行き、大きい楽器店に入った。
アコスティックのアップライトピアノは、どれも予算の関係上簡単には決断するのが難しかった。誠三が価格をみてうなっていると、
「最近は電子ピアノでもいいのがあるんですよ。」
と、恵里子は電子ピアノの方へ彼らを案内した。
「鍵盤をたたいた感じが本物とほとんど同じでしょ?音は本物の音をサンプリングで作ってあるから、不自然じゃないし。どう?あゆみちゃん弾いてごらんなさい。」
あゆみは勧められた電子ピアノでこのあいだ習ったばかりの練習曲を弾いてみた。
「ほら、結構いいでしょう?お父さんも試してみてください。」
と、言われても誠三は人差し指でキーを押してみるしかなかったが。恵里子が勧めるものが悪いはずはない、と信じていた。
「え、ええ、これはいいですね。」
すぐに決めないで他もみましょう、ということになって、時刻も1時近くなっていたので食事をすることになった。誠三は酒を飲むところなら何件か知っていたが、この取りあわせで洒落たお昼を食べられるところを知らなかった。
「デ、デパートのレストランへ行きましょうか?」
なんと野暮な男だ、と思われるかと思ったが、ええ、いいですよ。と、快く恵里子は言ってくれた。あゆみはめったにデパートに来る事がなかったので、飛び上がって喜んでいた。

3人での楽しい食事の後、デパートのピアノ売り場を少し見て、もう1度別の楽器店へ行ったが、最初のところで恵里子が勧めてくれたものがいちばん良かったようだった。結局、最初の楽器店で、電子ピアノを購入した。
結局、その1日の間、誠三は恵里子にあまり気の効いた話はできなかった。けれども、彼は決して不満足ではなかった。
秋の黄昏の中、駅から3人で恵里子のマンションへ向かってゆっくり歩いていた。恵里子があゆみと手をつないで彼の少し前を歩いてゆく。その姿を見て、彼はとても 幸せな気持ちだった。


4.雨垂れ

毎週水曜日があゆみと誠三のピアノの日だった。
今まではあゆみの練習の30分だけだったが、ふたり合わせて1時間のレッスンになった。ただ、誠三はやはり指が思い通りには動かないので、あゆみが次々バイエルの練習曲をこなしてゆくのに対して、両手の音階の練習や、ハノンの最初の3ページくらいをずっと繰り返していた。

それでも、少しづつ弾けるようになって、
「おとうさん、上手にできましたね。」
とあゆみと同じように教則本に動物のシールを貼ってもらうことができると、子どもに返ったように素直にうれしく感じるのだった。

何度目かの水曜日、ふたりで家へ帰って食事の後、あゆみが電子ピアノで今日の復習をしているとき、ぽつりと言った。
「先生、水曜日だけじゃなくて、毎日教えてくれたら、あゆみ、きっとすぐ上手になるのになあ。」
誠三は、洗った皿を片づけながらそれを聞いた。
その日あゆみが眠った後、誠三は部屋の角に飾ってあった、亡くなった妻の加奈子の写真をしばらく見つめていた。そして、それを静かにタンスの中にしまった。

次の水曜日は雨が降っていた。
「係長、最近、毎週水曜日は速攻で帰りますね。もしかして、毎週、誰かとデートしてるんじゃないの?」
誠三がコート掛けからコートを取って、お先に、と帰ろうとした時にアシスタントの女性からそう言われた。

「ま、まさか・・・。」
ピアノを習っているともいえず、口ごもっていると。
「万が一、ピアノならってるんですか?最近、机の上を指で弾いてますよ。」
と、小声でささやかれた。
「ま、まあ、そうだ。それじゃあ。」
本来、それほど恥ずかしがる事ではないのだが、誠三は頬を赤らめながら、傘を取った。

冷たい雨の中、あゆみを連れて恵里子のマンションまで行った。
インターホンを鳴らしてみたが、めずらしく恵里子はでてこなかった。
「あれえ、先生、忘れちゃったのかなあ。」
「あゆみ、先生もお仕事あるから、きっとまだ帰っていないんだよ。まだ、7時10分前だろう?」
と、誠三があゆみを慰めていると、ドアが開いた。

「すみません。ごめんなさい。電話してたものですから・・・。」
白いセーターを着た恵里子は眼鏡を押さえるようにして出てきた。
明らかに泣いていた様子だった。
「ごめんなさい、いま行きますから、部屋でお持ちになって下さい。」
すこし、戸惑い気味の誠三とあゆみにそう促して、恵里子は玄関の靴箱の上の コードレスホンの受話器をふたたび取った。そして、また泣いていた。

「おとうさん、先生泣いていたね。どうしたんだろう。」
「うん、どうしたんだろうね。」
「ねえ、おとうさん、先生助けてあげなよ。おとうさんならきっと先生のこと助けてあげられるよ。」
「・・・」
恵里子の声ははっきりとは聞こえなかったが、誠三はつい 耳を澄ませてしまうのだった。


5.告白

その日、レッスンが終わった後、あゆみが楽譜を片づけながら、誠三をひじで突っついた。そして、小声で、
「おとうさん、わたしひとりで帰れるから、先生とお話してあげなよ。」と、小学校2年生にしてはませたことを真剣な顔で言った。

誠三は、まさかひとりで帰すわけにもゆかないとはおもったが、意を決して、
「せ、先生。あの、駅前に飲みに行きませんか?こ、こないだのピアノ買いに行った時のお礼なんにもしていないし…。行きながら、あゆみも送ってゆけますし・・・。」
と、サウナに入ったように汗をかきながら言った。われながら、美しい女性を誘うのに情けない行き先だとは感じていたが、他に言葉が思い付かなかったのだった。
「え、ええ、お礼なんて、いいんですよ。先日はご馳走になったし、雨も降ってますし・・・。」
恵里子はすこし戸惑いながらも優しく微笑んでそう言った。
「先生、雨やんでるよ。」
あゆみがカーテンを開けて、ネオンの街をみながらそう言った。

「ほら、ずっと降り続く雨はないんですよ。」
誠三は何気なく言った言葉だったが、取り方によっては揺れる心理には効果的なひとことだった。
「そうですね、じゃあ、ぱあっといきましょうか。」
恵里子は明るく笑った。あゆみは恵里子に見えないように誠三にウィンクした。
雨上がりの冷たい空気は誠三には心地よかった。あゆみを家に送り届けて、恵里子を駅前の居酒屋に案内した。

「ここ、良く来られるんですか?」
「い、いや、まあ、ひとりでね、たまには。」
「ほんとにおひとりですか?・・・ふふっ。」
恵里子は微笑みながら暖簾をくぐった。

カウンターに着いた後、とりあえず生ビールで乾杯ということになった。「何に乾杯しましょう?」
恵里子は小首をかしげてジョッキを掲げた。
「そうだね、はじめて一緒にお酒を飲みにこられたことに、乾杯!」
「乾杯!」
結局、どうということもない理由の乾杯になってしまったが、誠三は満足だった。

「理恵とは、高校時代一緒だったんですよね。」
「そうです。同じクラスに佐島みずきというピアノの天才少女がいて、もちろんわたしなんか足元にも及ばなかったんですけど、その子と、理恵と、私でバンドやってたんですよ。」
「先生は何をやられていたんですか?」
「わたしは、ボーカルとベースをやってました。理恵はドラムス。彼女もリズム感が良くて、すごくうまかったんですよ。わたしはベースなんてやったことなかったんですけど、一生懸命練習して何とか付いていってるって感じでした。・・・あ、だから、川口さんが一生懸命練習されて、すこしずつピアノが弾けるようになってゆく感覚がよおく解るんです。先週はできなかったことが、できるようになってくるって、この感じは素直に嬉しいですよね。」
「ええ、ええ、そうなんです。自分でもまさかこの歳になってピアノを習うなんて考えてもいなかったことですけど、少しでも弾けるようになると、面白くなってきて、まるで子どものようにチャレンジする気持ちが湧いてきます。」
「うーん、その気持ちわかるなあ。わたしだって会社でパソコンを相手にしてるとおんなじですよ。」
恵里子はそう言うと、眼鏡の中の目を優しく細めると、ジョッキの中のビールを一気に飲んだ。

焼き鳥を食べて、ジョッキも2杯開けて、飲み物を切り替える事にした頃、誠三は酔いも手伝って、気がかりなことを切り出す事ができた。
「きょう、先生、泣いてましたよね。差し出がましいとは思うんですけど、もし、差し支えなかったら、私で良ければ何でも相談に乗りますけど・・」
うしろで、あゆみが、(おとうさんがんばれ)と言っているような気がした。
「あ、ああ、あれですか。お恥ずかしいところをお見せしてしまいましたよね。・・・実は。」
恵里子は少しためらった後、 告白を始めた。


6.乾杯

「きょう、わたし、結婚申し込まれたんです。」
「えっ?」
誠三は絶句した。顔に浮かべていた微笑みも凍り付いたようだった。
「理恵から聞いてると思いますけど、わたし、以前、結婚に失敗した事がありまして、もう2度とそういうことはないと思っていたんですけど...」
恵里子はレモンサワーのグラスを見つめながら語った。
「2ヶ月ぐらい前ですけど、本当に偶然に仕事の関係で、昔の知り合いに出会ったんです。そう、理恵と最後にコンサートやったときに一緒になった、別のバンドの人だったんですけど。」
2ヶ月前といえば、ちょうど誠三がトレーニングに汗を流していた時期だった。そんなことをやっている場合ではなかったのだった。

「本当はそのひと、その時に一緒にやってた、みずき・・キーボードの子が好きだった人で、、私たちは応援してた立場だったんです。でも、その子ともそれっきりで、私たちも会った事なかった・・・。」
恵里子はレモンサワーを一口飲んだ。
「それが、12年ぶりで、取引先の担当者として私の会社に訪問してきたんです。それも、たまたま私がお茶を出しにいって、テーブルの上の名刺を見て気づいたの。」
誠三も渇いた喉には少し刺激が強い炭酸を流し込んだ。
「そ、それは奇遇でしたねえ。」
「あ、って言ったら、彼はすぐにわかってくれたわ。『恵里子さん、ですよね』って。すごく懐かしがってくれたんです。で、それから、何度か電話が来て、3回デートしたかな。そうしたら、今日電話で・・・。離婚暦のあるこんな私でもいいからって…どうしてもって言われて、それで・・・。」
恵里子は少し目を潤ませていた。誠三はまったく違った意味で心の中で涙ぐんでいた。しかし、心からの微笑みに見えるような優しい表情を作りながら言った。
「あ、そ、そうですか。それが、うれしかったんですね。それは良かった。で?」
「で・・・?」
「あのー、そのー、ともかく、おめでとうございます。で、いつごろご結婚されるんですか?」
「は?・・・」
恵里子はくすっと笑った。
「いえ、まだすぐご返事したわけではないんですよ。そんな、簡単に答えられないわ。」
「えっ?まだ返事してないんだ。」

「わたしはねえ。」
恵里子は、すこし首をかしげて隣に座った誠三の目を見つめて言った。
「川口さんみたいな人がいいなあ。」
「えっ?」
誠三は一瞬理解できなかった。

しかし、この数秒間に形勢が逆転したことには気が付いた。また、汗が噴き出てきた。そして、思わず言ってしまった。
「先生、今度、うちに来て下さい。わたしのお客様として・・・。こんどはわたしの料理をご馳走させてください。私もこの6年で、料理もだいぶうまくなりましたんで。」
「ほんとですか?ええ、喜んで伺いますわ。・・・楽しみだわ。」
恵里子は優しい微笑みをうかべた。
そして、ふたりは新しいレモンサワーをたのんだ。
「乾杯をしましょ。何に乾杯しますか?」
恵里子はそういってグラスを持った。
「先生、いや恵里子さんの涙ではなく、微笑みに。」
誠三は思いつくままにそう言った。
「あら・・・じゃ私は、誠三さんのまだ見ぬお料理に。」
乾杯、と言ってふたつのグラスがそっと触れ合った。

<おわり>



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