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なぜ人は、自然に惹かれるのか。

こないだ久々に、
秋の森を歩いていて思ったこと。

僕は小さい頃から自然に触れてきたけど、そもそも触れる前から自然に帰りたかったような感じがする。物心がつく前から、そんな気持ちが根底にあったのだ。

小さな頃、車から見えた田園風景をみて、「田んぼ!田んぼ!」を連呼し、うるさいと親に殴られ怒られたくらいに、謎の自然への執着があった。(田んぼは里山であり、二次的な自然だけど)

何が僕をそうさせたのかは、全くわからない。
もしも「生まれ変わり」というものがこの世にあるのなら、僕は農家の生まれなのかも。

僕はなぜ、自然に帰りたかったのだろう。

メノコツチハンミョウのオスとメス。左が雄で、お腹の大きな右側が雌だ。


先日、こんな光景をみた。メノコツチハンミョウのオスとメスが向かい合って、何かを話しているかのようなシーンだ。

この後オスは振られていたけど、こんな日常が、北海道の森のありとあらゆる場所で起こっているのだと思うと、それだけで幸せな気分だ。

実家の隣に流れている川では、サケが遡上を始めていた。オスメスがペアで泳いでいるだけで、尊いのだ。

数がピークを越したある時を境に、少し下流の淀みに「ほっちゃれ」が沈むようになった。

「ほっちゃれ」とは、北海道のことばで、
鮭の死体を指す。

北海道弁だ。今の人は使わないので、もっともっとサケがどこにでもいた頃の言葉だと思う。




There are places I remember
これからもずっと忘れられない場所がある


All my life though some have changed
変わっていった場所



Some forever not for better
良くも悪くも変わらない場所



Some have gone and some remain
無くなったところや残っているところ



そういえばそんな冒頭がビートルズの曲、
『In My Life』にあった。
(この曲はラヴソングだけど)

故郷。
僕にとって自然は、帰る場所だ。


高校生の頃の僕。
網で水生昆虫を観察している。ここは「ゲンゴロウ」が沢山いる美しい池だった。僕はこの池を「ゲンゴロウ池」と名付け親しんだ。


僕はまだ25年しか生きていないけど、
少しずつ変わらない場所、変わった場所を感じるようになった。

「いや、変わる事は悪い事ではない。また新しいものが生まれる前提にある場合は。新しい自然が育まれるのには、とても時間がかかるから、ちょっと悲しいだけ…」

昔は悲しかったけど、
今はある程度そうやって理解している。

というのも今の時代は少し特別だ。

周りに同じような自然が沢山あればいいけど、今のご時世そんな余裕のある自然なんて、どこにも残っていない。

「かけがえのない自然」という場所が、どんどん消えてゆく。

人の手によって変化する自然は虚しい。
自然のサイクルで''移り変わる''自然を見ていると、尚更そう思うのだ。

知床で撮影したキノコ。



思えば、自然写真家は、
「自然、動物に求められて」なる存在じゃない。

自然を観て幸せを感じる人間がいるから、
成り立つ仕事だ。


カメラマンは被写体に「撮って」とお願いされて撮るのが大抵のお仕事。だけど僕は何も語らぬ自然を心から撮りたいと思い、届けたいと思い、今日もこうして撮っている。

自然は、何も言わない。

だから僕が守らないと。

そう思うのは、僕がヒーロー映画を観過ぎているからだろうか?

そんな事はないと思う。

きっと、
みんなの心の中にも、
宿っているはずである。

3年後。今は無き''ゲンゴロウ池''

大切なのは必ずしも、
目の前にある自然ではない。

消えゆく森、湿原。
どれも実感するには勇気がいる。

だからせめて僕の撮った写真を観て、
何か感じたときは、

「自然を守りたい。」

そう強く願ってほしい。

その願いを増幅させるのも、僕の仕事のうち。

それこそが、僕が一番やらなければいけない思想の根幹だと思っている。


人はなぜ、自然に惹かれるのだろう?

僕はただシンプルに、

「人が動物だからだ」と答えたい。

阿寒夕景。

訊かれたら、

一言。

そう答えることにしている。

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