曖昧な飢饉

えー、今山の中でこの文を書いてます。


無音。圧倒的無音。これは心中するわけじゃなく習慣でして、煮詰まったとき、集中したいときは内観するために車で山へ行くのです。余計な情報がシャットアウトするのでおススメです。

さて、タイトルの通りですが、飢饉についてですね。昭和初期は今より経済も安定せず、国民全員に食料も分配できなかったそうなのですが、地域によっては子供を売り払ってまで米を食べて生き延びたそうです。

つまり、幸せになりたい。承認欲求など考える場合ではなく「今日という日をどう生き延びるか」というレベルの状況な訳です。

だから現代のレベルに例えれば、いい車に乗りたい、オシャレな家でブランド服を着飾りオシャレなカフェで一服し、会員制のクラブで洋酒を飲み、洋風のダンスを踊り会話を華を咲かせる、など 

生涯、物理的に無理な方々がいました。


対して、現代の一般レベルの話をします。今ならブランド服はOLさんでも分割払いでなんとか買えるし、靴もムカデのように買い揃えてる人もいますね?欲を言わなければ衣食住は確実に満たされていますから餓死することはほぼありません。

富裕層と一般の区別も付きにくくなりました。

だからこそ危険だと思うのです。

家買えるか買えないか、高級車買えるか買えないか。彼女彼氏できるかできないか、らへんが一番危ういです。

豪邸買えるか船買えるか、というレベルはブッとびすぎて何も感じない。

また、江戸時代は結婚できない奴は大勢いましたし、身分で生まれた時点で職確定で転職の自由などありません。はじめから不可能だとわかれば何も思わないですね。

オレ!イケるかも!!って辺りのレベルだから勘違いするし、ダメだった時のショックは大きい。


現代においてはその差が曖昧な気がします。思えば、僕も高校時代微妙な立ち位置にいて、オタクとパンピーの間に立っていて、イケてる系とも絡むけど一緒にコンパやカラオケ行く話にはならない。オタクの友達は遊びに誘われるけどアニメとか分からなくて、彼らの歌の元ネタも知らないのでイマイチのれなかった。でもあいつらの方が楽しそうだった。今思えば非リアだと受け入れなかったのが問題でした。無理に背を伸ばしても結局得るものはなかったです(汗

ティファニーの最低クラス

たしか、映画「ティファニーで朝食を」で売れない作家が、彼女とティファニーへ来店し、無名で金がないもんだから、ティファニーの一番安い小物はなんとか手が届くからそれを買って彼女へプレゼントするシーンがありまして。

でもこれって無理してすがってるようで見方によってはカッコ悪いかもしれませんね。ティファニーやからええやろ!!みたいな。

(※ティファニーとお前の薄暗い青春時代を一緒にするな!という意見はひとまず置いといて下さい)

それよりも量販店で最上級の物を買って、美味しい御飯を食べた方が満足する気がしませんか。

"希望"という伝染病

現代は「オレ!イケるかも!!」病に取り憑かれている気がします。可能性があるから期待も大きい。それは蛇のように私達をどこかに潜み睨んでいる気がします。

ただこんな社会でも唯一自己充実がはかれるのは、「自由意思による選択肢」です。それは職業も選択できるし、娯楽もサブカルチャーも顕在化しました。今の立ち位置でどこへ身を置きどの分野でどの能力を磨くかにかかっているのではないでしょうか?その前には「事実」を受け入れなければなりません。

顔は不細工なのか普通なのか、背丈は何センチ、親の資産はどうで、自分はどうで、冷酷な事実をまず受け入れないなければ自分を好きにすらなれません。

その上で社交性はどうか、足りない部分はコミュ力でカバーできるかという工夫でなんとか「絶望」に立ち向かえるかもしれません。

また、無理せず自分のレベルにあったコミュニティを探してユルユル生きるのもありだと思います。

現代は曖昧な飢饉。隣の芝生はグリーン。己の庭園を築いてみて。

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