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"正義"について

あれは高校3年の頃だった。


私は部活の練習が終わった後、
家に帰る途中、地元の牛丼屋さんで1人で牛丼を食べるというブームにあった。
これは体重を増量するために始めたことで、
ある種自分のルーティーンになっていた。

その日もいつもと同じように牛丼屋に入り

『牛丼汁だくで』

と注文をした。

店の席はUの字になっており、
私はUの筆終わりの方の席、私の向かいにすこし挙動不審な若いサラリーマン、カーブのところに土木作業を職にしているようなおっさん、
という私を合わせた3人の客がいた。

私が牛丼を待っている間、おっさんが

『ねぇちゃん会計!』

といいお会計を始めた。店員のお姉さんが

『Tポイントカードございますか?』

と聞くと、なにを思ったのかおっさんが、

『あ?俺を誰やとおもとんねんごら!そんなもん持ってないわ!舐めとんのかわれ?なんでわしがそんなもん持たなあかんのじゃ!お前舐めとんな!』

と言い出した。
今思えばこのおっさん相当酔っていた。

『ほんまに俺を誰やと思とんねん!この辺じゃ俺を知らんもんはおらんぞ!』

なかなかしつこい絡みをお姉さんにしていた。
店員のお姉さんはと言うと、こういう客の扱いは慣れているのか、軽くいなしながら会計を進めていた。

お姉さんは全くもって大丈夫だったのだが、
様子がおかしくなったのは私の向かいの席の挙動不審な若いサラリーマンだ。 
挙動不審がさらにひどくなり、異様におっさんのほうを見てキョロキョロし始めた。
そして急に、バン!と机を叩いて立ち上がると、おっさんの前に歩いて行き

『お、お前ぇ!ご、ごちゃごちゃうるさいぞぉ!こ、こまっているだろぉ!』

と言い放つと、いきなりグーでおっさんの顔面を殴りつけたのだ。


若いサラリーマンはすぐに男の店員に
"落ち着いてください!"と制され、
おっさんはというと、さっきの勢いは何処へやらすっかり戦意喪失し、目の下が切れ、みるみるうちに大量の血が流れ出し顔面は真っ赤になった。

私はその血を見て食欲をすっかりなくし、

『すいません、牛丼キャンセルで…』

といい店をでた。
家に向かう途中恐らくその牛丼屋に行くであろうパトカーと救急車とすれちがった。



ここで私がなにを言いたいのかというと、

"正義というのは間違った方向に向けたり、自分の正義を他人に押し付けたりすると時として悪になる"


ということである。

サラリーマンにとっては、迷惑おっさんを殴りつけるというのが正義だったのかもしれない、

しかし、それは間違った正義の振りかざしであって、それによって牛丼はキャンセルされる、お姉さんはもっと困る、事故処理はしなければならない、警察や救急車が来て騒動になる、それのせいで客が来ない、さらにはサラリーマン自身も警察に逮捕されるかもしれない。

悪でしかないのだ。



これはいろいろなことで言える、

誹謗中傷だってそうだ、誹謗中傷というのはそれをする人は

"私は悪いことをした人に注意をしている、世直しをしている"

という自分の正義のもとやっている。
しかしそれは間違った正義の方向、自分の正義の押し付けであり、それがエスカレートすると命をたってしまう人だっているのだ。
これは完全なる悪である。 


虐待だってそうである。
虐待をしている人は

"これはしつけだ、子供のためだ"

という。
しかしそれは間違った正義であり、ただ単に自分の子供は"こうあるべき"という自分の正義の押し付けなのである。



しかし、これらをしてしまっている自分に気づくというのは非常に難しいことだと私は思う。
やってる本人は悪という自覚が全くない、むしろ良いことをしていると考えている。

そこで大切なのは

"自分を客観的に見ること、相手の気持ちに立って考えること"


が大切だと思う。

自分の正義の押し付けというのは圧倒的な主観なのだ。
悪く言えばただの自分の自己満足にすぎないのである。
自分を客観、そして相手の立場にたって考えることで絶対に抑制できると思う。



あと、もう一つだけ正義について言いたいのは

"中途半端な正義は1番の悪"


ということだ。
例えば膝を擦り剥いた人がいるとする、その人に『大丈夫?』と声をかけただけで終わるのではなく、その傷に消毒薬を塗ってあげる、絆創膏を貼ってあげる、治るまで経過を見てあげる、


これは大袈裟かもしれないが、ここまでしてやり切ったと言えると思う。



まぁでもこの記事も私の

『正義というのは間違った方向に向けたり、自分の正義を他人に押し付けたりすると時として悪になる』
『中途半端な正義は1番の悪』

という正義の押し付けなのかもしれない。




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