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特別な人①父の思い出

 10年前の今日、父は永眠した。朝、家族がいる自宅の布団の中で最後の大きな呼吸の後、静かに息を止めた。死とはこういうものなのだと思わせる、穏やかな最後だった。その瞬間涙は出なかった。悲しみより、判断能力の落ちた母に代わって、一人娘の私がこの後何をどうすればいいのか頭をフル回転させなければならなかったからだ。医者を呼び、親戚に知らせ、必要な手続きなど次々とやる事があった。無性に涙が止まらなくなったのは、焼き場で真っ白な美しい骨を見てからだった。昭和歌謡の「骨まで愛して」という曲が頭をよぎった。それくらい父の骨は本当に白くまっすぐで綺麗だった。その時ようやく、心にぽっかり穴が空いたと気づいた。
 亡くなる3ヶ月前に、風邪の治りが悪いなあと少し大きな病院へ行き、家族の前で肺癌ステージ4と診断された。多少のショックはあったが、もう歳だから進行もそれ程早くはないだろう、これからは少し速度を落として歩めばいいのだと言いきかせた。何しろ80歳にしては元気で好奇心にあふれ、世界中を旅行して写真を撮り、スポーツカーを乗りこなしていた父だ。積極的な治療という選択肢は選ばず、ゆっくり対処療法しながら余生を過ごすのも悪くないだろうと。
 不思議な事がいくつか起きた。2階建一軒家に母と二人で暮らしていた父は、診断から1ヶ月程経ったある日、少し寝坊して起き上がり、階段から降りる際に滑り落ちてしまったと言う。意識がなくなったがしばらくして回復したのだと電話がかかってきて、夢物語のような話をした。
 真っ暗な道を歩いていると、ふた手に分かれる道の真ん中に門番のような人が立っていて、「ここから先どちらに行くかは、この箱の中の玉の色で決まります。玉を一つ取ってください。」と言われ玉を取ると黒い玉だった。すると、すぐ後ろから知り合いが来て、同じように玉を取って「あなたにはずいぶんお世話になったから、この青い玉と取り替えてくれませんか。」と言われ取り替えた。青い玉を見た門番は右側の道を指すので歩き出すと、道が明るくなって音楽が聞こえてきた。気がつくと階段の下だった…。と。
 それから2階のベットで寝るのはやめて1階に布団を敷いて寝るようにした。その後、少しづつ食欲が落ちていき、私もなるべく父のそばで過ごすようにした。
 亡くなる三日前の事だった。夜中に低いブーンという音を感じて父を見に行くと、部屋中に物凄い数の羽蟻が舞っていた。電気をつけると何匹かの羽蟻はカーペットの上に落ちた。慌てて掃除機を出して落ちた羽蟻を吸った。それでもまだ物凄い数の羽蟻がどこからか来て舞っていた。掃除機のゴミパックがパンパンになる程吸っていつの間にか空が明るくなって羽蟻がいなくなった。

父が教えてくれた事

 父は塗料会社の研究員だった。お酒は全く飲まないが、煙草は一日20本程吸っていた。父が煙草を吸う姿は嫌いではなかった。健康を気遣って禁煙を勧めた事もあったが、やめる気配はなかった。けれど、私の結婚する相手は煙草を吸わない人だと言うと、いつの間にか吸わなくなっていた。禁煙して20年以上経っていたが肺癌になった。
 私が小学生の頃、職場で使わなくなったビーカーやフラスコや試験管が、家のベランダにごろごろしていた。草や花や色紙を水につけて試験管置きに並べて遊んだ記憶はあるが、化学に興味を持つことはなかった。その後父は、塗料の技術指導のためソウルへ1年間赴任した。時々届く赤と青の縞模様の封筒にハングル表が入っていたことがある。帰国後も父のノートにはハングル表が貼られていたこと、戒厳令があるので夜遅く外を歩くことはできなかったという事だけは記憶に残っているが、ハングルを習得するまでには至らなかった。最近になってソウルへ何度か旅行した際に漢江にかかる橋を見て、1970年代に父はこの橋の塗装のため、韓国の気候風土に合わせた長持ちする塗料を研究していたのだと理解するようになった。当時父がどの辺に住んでいたのか、韓国がどんな状況だったのか、もっと詳しく聞いておけばよかったと、今になって後悔している。
 父は研究者だったが、経済にも政治や国際情勢にも詳しかった。小学生の私に株を教えた。株の上がり下がりで経済がわかるのだと。今でも株にはお世話になっている。囲碁も教えてくれた。囲碁は陣地取りゲームだが政治や国際情勢がわかるのだと。相手が必要な碁を打つ機会はないが、詰碁の問題が目に入ると、アタリ、コウなどの用語が頭に浮かび少し考えたりする。今まで生きてきた中で、株をやって囲碁ができる知人に会ったことがない。私の密かな自慢である。

残してくれた物

 切手収集は生涯の趣味だった。イギリスの使用済み切手には高額の値段が付いていると言っていた。100冊以上のスクラップブックを大切にしていた。写真は撮るだけでなく、白黒フイルム時代には現像から自分でやっていた。暗室で酸っぱい匂いの液体につけた白い紙から黒い画像が浮かんでくる様子にはドキドキしたものだ。カメラは10台以上持っていた。望遠レンズも何本かあった。それらを入れたカメラバックと空のバッグも山ほどあった。撮った写真はCDに焼いてレーベル印刷もして配ったりしていた。写真展に出品した作品もたくさんある。パソコンにも保存し、Photoshopで加工もしていた。パソコンは、自分で組み立てたものを含めて数台、プリンタも外付けハードディスクも複数あった。父が残した宝物の数々を前に、これらを父以上に使いこなせる人はどこにもいないのだ!と、断腸の思いで家と共に全て売却処分した。ただ一つ、最後まで枕元で愛用していたノートパソコンだけは手元に残した。私は今、そのパソコンで記事を書いている。没後10年を期に、父が教えてくれたあらゆる事に感謝の意を伝えるために。



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