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「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」終焉からのはじまりの予感

一つの終焉

 呼吸にもいつか終わりがあるように、生にも終わりが来ます。それはPrologueと類似しているようで、全く異なる状態。


 目的や終着点を気にする人と私はよくお会いするのですけれど、その目的であったり終着点を絶えず考えている人には、その次のPrologueを感じられません。それはもしかしたら「個」という存在にこだわり過ぎているのかもしれません。例えば、「禅の響 ZEN no OTO」を聴いた方には、それぞれ既に何らかの「Prologue」が起きているわけで、なんら作用されない事象など、この世には存在しません。

 私はこの「禅の響 ZEN no OTO」をイベントとして捉えている事がなく、実は終始、立体的な繋がりに感じています。単に演奏の始まりであっては、とても滑稽ですし偏っています。

 一つの終焉を迎える前には、必ず既に次の始まりがあります。それが自分自身の事でなくとも。夜、深い森を眺めているとはじまりの準備をしている生命を感じますし、皆さんも愛している人の寝顔を横で見るとき、恋しく思えるのであれば、これから起こる何かを感じているのかもしれません。

 心は終焉と共に、いつも、満たされ、躍動しています。

 点と線



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