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禅の響 - ZEN no OTO-

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「禅の響 - ZEN no OTO -」は2020年10月から始動した年4回行われるコンサートです。 ここに、言葉と音のアーカイブを残します。 尺八の音は音楽ではない。   … もっと読む
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#音楽

「禅の響 -ZEN no OTO- | Epilogue」終焉からのはじまりの予感

一つの終焉  呼吸にもいつか終わりがあるように、生にも終わりが来ます。それはPrologueと類似しているようで、全く異なる状態。  目的や終着点を気にする人と私はよくお会いするのですけれど、その目的であったり終着点を絶えず考えている人には、その次のPrologueを感じられません。それはもしかしたら「個」という存在にこだわり過ぎているのかもしれません。例えば、「禅の響 ZEN no OTO」を聴いた方には、それぞれ既に何らかの「Prologue」が起きているわけで、なん

「禅の響 -ZEN no OTO- | 龍聲」ないものをあるとせよ

龍の夢を見た。 龍は目で語る。 ないものをあるとせよと。 空に舞う霧とも思える龍たちは、いつも傍にいる。  この曲は、私が昔、夢に見た龍を音として残したく作曲した曲です。夢の詳細はこちらをご覧ください。「アルバム 回向 曲解説」 「ないものをあるとせよ」  私が毎年行く、戸隠神社の近くにあるキャンプ場で2年前に撮った写真です。雨がザーザー降る中、何かに囚われたように急に龍聲を吹禅したくなりました。雨は勢いを増し、霧のような雨になり、上空ではいくつもの雷鳴が重なり、私は

「禅の響 -ZEN no OTO- | 別伝 鹿の遠音」アバンギャルドな生き方

言葉でない伝え方ができるとしたら、 私たちの生き方はどうなるのだろう。 嬉しい時、怒った時、おかしい時。 動物からすると、人間の伝え方はどう感じるのだろう。 不自由、虚、無感情。 野生は心に溢れいている。 「別伝 鹿の遠音」は音源になっているものが少なく、またそれぞれが技術も含めて全く異なる曲となっています。別伝とありますが、通常の「鹿の遠音」と比べることが出来ない別の曲です。かなり前衛的で江戸時代に作られたとは思えないほどです。  推測するに、私が知っている曲とは全く異

「禅の響 -ZEN no OTO- | 手向」手を合わせる事での自分への向き合い方

いつからだろう、手を手と合わせる行為をするようになったのは。 この国は、常に自分の中の心を向き合う心を大切にしている。 私はそうした、ほのかな感覚が好きである。 手向る事は遥かに多くを伝えられる。 数えきれない程の別れは、数えきれない程の感謝に繋がる。 私はいつも心に手向たい。  人が亡くなる事は、とても悲しい。しかし亡くなった方を思い出す時は優しい思い出ばかりです。手向はそうした思いが混在している曲のように思います。  私は、いつも食事をする時と終える時に手を合わせます

「禅の響 -ZEN no OTO- | 虚空」無我の境地

 人は意識する。何故、意識するのか。 自我。他人。社会。環境。あるいは人生の意義。 それは生に執着する心の顕。 様々は知っている。意識は浅はかで、都合がよく、とても儚い。 手に溜められた一掬いの水に自分を映すようなものであると。 時間と空間の支配の顕。 一心は、それを淘汰する。  今年に入り虚空をどれほど吹禅したでしょうか。純粋に尺八と向き合いたかった。そして、どれほど自分が尺八を愛しているのかを知りたかった。ただそれだけだったのかも知れません。  今年1月か

「禅の響 -ZEN no OTO- | 本手ノ調」生きる事の深さを見つける

生命は息し、それは無から一瞬に解き放たれ放出し、やがて終焉を迎える。 無は次のはじまり。生命力に溢れ、命を凝縮している。 この一連の流れは、地球が生を終えるまで無常に繰り返される。 人間はありとあらゆる死から目を背ける。 恐怖は極端に萎縮され、小さな個人の枠組みを形成し、そして全てを盲目にする。 万物の過程は人間が考えている以上に、美しく、幸福に満ちている。  人は何故、死に抗おうとするのでしょうか。それは呼吸を止めてしまうのと同じように思います。自身が死して尚も、血や形状