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アポロンの顔をして 15 最終話【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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15


「ねえ、わたしも座っていい?」
 わたしが声をかけた若い男は、右肘をつき掌を枕にして、涅槃像にも似た姿勢でいた。しかし片膝が天井に向けて立てられる点だけで、だいぶ俗っぽい形象になっている。男は頬を掌から離さず、首の回転だけで声の主を探そうとした。が、そこにわたしはいない。『よっこいしょ』とでも聞こえてきそうな所作で、体を起こして胡座をかいた。若干面倒くさそうにわたしのことを見やると、何も言わず、腰と尻の動きだけで横に退く。それで隣の男との間に隙間ができた。わたしが話しかけた前後で、男が動いた以外は何事も変化することなく、新参者の参入は歓迎も拒絶もされなかった。わたしは遠慮がちにその空いた空間に腰を下ろした。
 今日は7、8人がここに居る。ちょうど真向かいにいる男の足下にスマートフォンが据え置かれていて、そこから洋楽ヒップホップが流れてくる。右奥に談笑する2人を見たが、多くはその音楽に合わせて体を小刻みに揺らしているだけだ。近付いて、目の当たりにしてよく分かったのは、彼らの動きに規則がないことだ。おのおのが自由に曲を感じているようだった。
 しかし声をかけて座ってみたものの、自分がこの集団に加わって何をしたいかなんて考えは、まったく持ち合わせていなかった。左を見やると、場所を空けてくれた若い男は身じろぎひとつせずに俯いている。しかたなく逆隣りの男の動きを模倣して、途切れ途切れに体を揺らしてみる。しかしぎこちなさはすぐにバレるものだ。
「おねーさん、ノリわるい。壁あるなぁ」
 涅槃仏から禅僧に姿を変えた男がそう呟いた。わたしは一寸居心地の悪さを感じたが、表情を窺うと不機嫌になっているような様子は見られない。ただ心に浮かんだものを口にしただけという感じだった。
「なんかいい曲持ってないの?」
 男は同じようにまた、ポツリと洩らした。
 いい曲なら腐るほど知っている。この子たちの倍とは言わずとも、多少は長く生きてきたのだから。しかし今この場にふさわしい曲を、棚の中から取り出せる自信はまるでない。『ノリ』……か。これだけ自由な人たちなのだから、きっとわたしが乗れる曲で良いのだろう。

 わたしは携帯電話を取り出して、音楽再生アプリを開く。そして頭の中ではずっとリピートしているのに、いざ見てみると再生回数が2回くらいの或る曲を選んだ。スリーピースバンドの初期の曲、亡くなった知人が勧めてくれたスローバラードだ。再生をタップして、ゆったりとしたエイトビートをドラムが単調に刻みはじめると、真向かいの男が阿吽の呼吸でとっさにヒップホップ曲を引っ込めた。右奥のふたりの談笑も止んだ。
 気だるいベースは湖の底に沈殿する。不穏にゆがむギターは不規則に不意に水面をゆらしては去ってまた姿を現す。淡々と時だけが過ぎていくようだ、それは日常のように。意味があるようでない詞、意味をなさぬようでなす詩、言葉は独特なスモーキーヴォイスに運ばれて湖水に溶けだしている。そして歌は存在を主張せずただそこに在る。
 わたしのからだは揺れない。そのようにしてこの曲を聴いたことはない。ただし聴く度にいつも瞼の裏に熱いものが込み上げる。それをこぼれ落ちないように必死に堪えていて、思えば力なく震えるくらいには揺れていたのだった。
 若者たちも20年近く前の曲に聴き入り、酔いしれていた。彼らの陶酔はひとめ見れば分かるし、見なければいっそう傍に感じられた。曲は中盤に差し掛かり、そのうちひとり、ふたりと踊り始める。重力が意味を失う。気がつけばわたしも空間の只中に浮かべられていた。こんなにテンポの遅い曲と、勢いよく回る彼らとの間に、不調和はどこにも見あたらない。
 暗転していく意識の中で、深い深い青の中で、わたしは彼らの背後に重ねて見たのだ。海底へ潜りながら力強く身を翻すほ乳類を。宇宙で人知れず輪転する星座をかたどる生物を。かれらは回り、回って、行く先を見失ったとしても、きっとそれを受け入れているし、悠々として、そして終始満足げだ。
 曲が終わり、音楽の酩酊から覚めていくと、この曲の存在を教えてくれた知人の顔が浮かんだ。わたしは「ようやく、あなたのことを分かってもらえたよ」と知らせてあげた。『追悼』という言葉は嫌いだ。なぜなら知人は現に生きている、わたしの棚の中で、わたしの海の底で、何に侵されることもなく、ずっと生きていく。時折こんな波を起こしてわたしを荒ぶらせては、鎮める役までの両者を一気に引き受けてくれる。死に生きる者は、現実に生きる者よりもずっとずっと傍にいる。 

「ねえ、お酒飲もうよ」
 突飛かもしれなかったが、献杯をしたくなった。知人もわたしもようやく大人になって、彼はたぶん今この場所にいる。酒を酌み交わしたくなったのだ、初めての。なによりこんな陶酔と恍惚の舞台には、きっと酒が似合う。
「んー、ダメダメ」
 踊り終えた男は、首を振り断固とした拒否を示した。正直、まんざらでもないような顔を皆がすると想像していたから、その反応は心外だった。たむろする若者は酒が好き、というのは偏見だったか。わたしは『どうして?』と目で訴えてみた。
「酒飲んだら追い出すって駅員に言われてるからさ。おねーさん、俺たちよりぜんぜん不良じゃん」
 十歳以上年下の男にたしなめられた。秩序を守る現代の踊り手は実に清々しく目に映った。わたしが恥じ入って苦笑いを浮かべると、その場にいる何人かから失笑が洩れて、輪が繋がった気がした。
 そのとき、光が一周走って、円の中心では暖色の色彩が、刹那に華やいで見せた。今この瞬間、改札に向かい通り過ぎる人々の中にも、当然のようにこの煌めきが見える人たちがきっといるだろう。気付いたのに振り返らず、立ち止まらず、涼しげに通り過ぎる。わたしもそうであったように、みなアポロンの顔をして生きている。
 この空間を的確に指示する言葉をわたしは持たない。しかし灰色の駅の一隅に、燃え尽きた心の片隅に、こんな贅沢な酒宴の席が残されていること。それに気付かせてくれたことだけは、ずっとあの人に感謝しよう。


『アポロンの顔をして』
──  Fin. ──

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