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【往復書簡:8便】こんなのはじめて

おこんばんは。今、酒を片手に手紙を書いてます。一杯だけ、ご容赦ください。先日は僕の書籍を紹介して下さりありがとうございました! 手元でひゅんと弾道が落ちるような投球に、一瞬目の前が真っ暗になりました。良い悪いは置いておいてその時の身体感覚だけ……

「自身を詩人と思うか」という質問がありましたので、先に答えておきたいと思います。なんかマズそうだから(笑) 苦手なものは先に食べて、あとで口直しをしたい。

詩集『青い風花』を出版したのは2015年のことです。のちに表題作に詩集『巡る風花』を加えた増補版も出させてもらいました。いわゆる自費出版というやつです。で、詩集を出したのだから自らを詩人と思っているのだろう?と思われがちですが、そんなことはないです。なんかよく分からない。意気込んで「自分は詩人だ、書くぞ、うおぉぉぉ」って時や、「この名状しがたい生き方は詩人である」なんて厨二病をかますこともあるけれど、自分を心底詩人だと思っているわけでもない。自分から生まれ出る作品が詩なのかもよく分かっていません。『青い風花/巡る風花』は「詩的」「詞」の域を越えないんじゃないかと思っています。「詞」は歌うことを目的として韻律を併せた文章、と仮に定義してます。

さて、自分語りはこの辺までにして、こういう話題になると必然的に「詩人とは何か?」っという流れになりますよね。暗く深い沼だと思いますが、文章を書きながら自分の考えを整理していきたいと思います。

荒川洋治はおそらく人格よりも作家という仕事を重視したのでしょう。現代詩作家、的確な表現ですよね。一方で、谷川俊太郎は「詩人なんて呼ばれて」の中で、ことば以前の世界の豊かさを謳い、「詩人」などといったことばによる限定に憂いを表現しています。

本当は呼ばれたくないのです/空と呼ばれなくても空が空であるように/百合という名を知る前に子どもが花を喜ぶように/私は私ですらない何かでありたい。(中略)虚空から名は生まれない/名づけ切れない世界の豊かさ!/その chaos を受胎して/私はコトバの安産を願うだけ

『詩人なんて呼ばれて』(新潮社)の冒頭にある詩です。理性と感性の両方で受け止められる詩だと思いました。豊かな世界が先にあって、そこからコトバが生まれてくる。その安産を願う人は、私であって私ではない、詩人であって詩人ではない。

僕の場合、詩の意義や詩人とはどういう人だったのかという問いの答えを、海外の古代中世に探ろうとしました。つまり「宗教詩」の世界です。

「啓示宗教」という言葉をご存知でしょうか? ユダヤ教、キリスト教、イスラームの三宗教を指すもので、神の啓示を預言者が預かり民衆に伝える、という歴史を持つ宗教のことです。この「啓示」ですが、たとえばイスラームのムハンマドに下った啓示はたいそう美しく霊的で、当代多くの詩人が幅をきかせていた時代にもかかわらず、彼らが全く太刀打ちできないほどだったそうです。文盲であった(とされる)ムハンマドがこのような詩を伝えたことが、奇跡とされる所以です。

インドのバラモン教、ヒンドゥー教にも「啓示」に近い概念があります。インドの有名な古典にはヴェーダ、ウパニシャッド、『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』などがあり、いずれもこれらの宗教の聖典とされているものです。このうち前者2つ*をシュルティ、後者2つをスムリティと分類します。シュルティは動詞シュル(聞く)から派生した言葉で「天啓」と訳されます。一方でスムリティは動詞スムリ(記憶する、思い浮かべる)から派生し「聖伝」となります。イメージとしては、天・神様から聞いた作者不明の文学がシュルティ天啓文学、誰かから伝え聞いた話を誰かがまとめて記憶にとどめた文学がスムリティ聖伝文学です。
(*厳密には『ウパニシャッド』も『ヴェーダ』に含まれます)

クルアーンやヴェーダを詩と称する人が現れたのは、おそらく近代以降のことだと思いますが、僕はこのような宗教観(信仰と言った方がいいかもしれません)と詩作というのは無関係でないように思います。それは特に「新しい世界の創造」という点においてです。宗教詩はイマージュやシンボルを駆使して新しい世界を作り上げます。信仰に基づいた共生世界や、秩序立った理想社会や、死後の世界や。これらは啓示や天啓文学の登場以前には、思い描くことのできなかった世界なのではないでしょうか。

一部の文学には、社会の所有物から個人のものへと変化していく過程があるといいます。詩についても同じなのかと思います。個人によって作られる新しい世界。それは見たことのない景色や街並み、ふいに発掘された感情や体感の地図、否応なしに変革させられる内部の秩序……こういったものを生み出していくのが詩文学なんだと思います。「え、こんなのはじめて~♡」がないと詩じゃない。ってこと……か?笑 それを仕事として作り出す人、その安産を見守る人、それぞれが思うそれぞれ立場で呼び名が変わってくるのかな。ある呼び名が持つ領域が他の領域に跨っていたり、真ん中に穴が開いていたりして、「詩人」って心もとない。さしずめ僕は「詩を待つ人」かな? よく分からないですが、少し整理できた気がする。「神の詩を待つ人」……「詩人」よりやべぇな(テンション、テンション!)

はじめての体験。そういえば、永田さんと手紙のやり取りは「はじめてのウォッシュレット体験」で始まりましたね。いしいしんじさんのエッセイにも、「はじめて」を見いだしつづけられる人、とありました。こういう文章が引っ掛かる永田さんは、やはりリリカルな人なんだろう思います。リリカルってやっぱり良い言葉だよ。形容詞だから幅広く何にでもつけられるし、詩的とか抒情的ってことばには「的」ってなんやねんってツッコミを入れたくなる。うん、自己満文章は何となく着地できた気がします。

今日はほとんど僕の必然性について話しました。でも永田さんとの出会いの偶然性とも無関係でなくて「はじめて」と「リリカル」を介して繋がった。互いに名状する対象や範囲は異なるかもしれないけれど、そんな勘違いすら偶然性に内包されて、それもまた新たな僕の必然性になっていきます。「わたしはあなたの結果であり、あなたはわたしの結果だ。」きっとその通りに。ただしそれも、部分的に断片的に。ヤグティーヌのように。

フェルナンド・ペソア『不安の書【増補版】』、永田さんの紹介文を見ると魔力的な本なのかと期待しちゃいます。「あらゆる人がわたしでないのが羨ましい」この一文の前後文脈をしっかり読みたいような、読みたくないような…… だってこのままで詩になっているから。タイトルとこの一文だけですっかり魅せられてしまいます。うん、でもやっぱり読んでみたいですね。自己と他者、出会いと別れ、全体と部分、あらゆる要素に新しい感慨を吹き込んでくれるような気がします。

この書簡のやりとりだけでも十分に新しい部分や秩序が生まれてくるものですが、本を介するとさらに複雑になって面白いですね。色んな視座を詰め込んで詰め込んで、うーんーよく分からないからやっぱいいや!なんて自分に戻ったつもりでも、実は少し変化している。その繰り返しがなんとの楽しいものです。

ただ問題はヤグティンバンコ…… ヤグティーヌのときと違って何にも生まれねぇ。強いていうなら永田さんの期待するアクロバティックな人じゃなく、ゆあーんゆよーんゆあゆよん、みたいな感じ。次回までの宿題にさせてください(真面目か)。
今晩はつまらない文章を書いて、失礼ぶっこきまんぼー。引用は少ないけれど許してちょんまげ。おやすみなさい


2020年4月28日 矢口れんと  拝

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