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アポロンの顔をして 13【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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13


 ペデストリアンデッキの上で倒れゆく身体。まず柵の手すりが反射的にわたしの右腕を支えた。続いてすぐさま何かに左腕を掴まれ、引っ張り上げられたおかげで、地面への激突は回避された。軽く膝を打ったのちに横座りの姿勢で崩れ落ち、両手で宙吊りにされた状態になった。
「おい、だいじょうぶか?」
 左上方から飛んできた声には落ち着いた響きとずっしりとした声量があり、傍に巨大なスピーカーでも置かれたかのようだった。ゆっくりと見上げていくが、わたしの視界の中央はずっと黒い物体に覆われたままだ。黒は黒でも、研磨する前の黒曜石のようなざらついた光沢を帯びて、なにかと押しつけがましい主張をしてくる色だった。さらに顎を上に向けると、ようやく白い三角形を二つ並べたオブジェのようなものを見つけ、それがシャツの襟だと分かったと同時に、人に支えられ助けられたことにを気付いた。
 左腕を掴んでいたのは、非常に体格の良い、わたしと同世代の男だった。ツーブロックの髪をポマードで固め、ギラギラした生地のスリーピース・スーツにワイシャツをはだけ、いかにも水商売のキャッチかスカウトの風貌だ。顔をまじまじと見つめる。春先なのに日焼けしている肌にはふたつみっつシミがあり、目鼻や唇はペンで縁取ったようにはっきりしていた。昔やんちゃをしていたか、もしくは今でも四六時中遊びまわっている姿が容易に想像できた。好色を勲章のように、誇らしげに見せつけるような堂々たる態度があった。ここまでおおっぴらにされたら、貶める類の言葉ひとつも出てこない。

 これを幸運だと思った。
 わたしは人の優しさに支えられ慰められ、生きる希望を見いだすなどという有り体な筋書きを思い描いてはいなかった。この1ヶ月間あの人への恋慕の情に身を焦がし、今しがた迷妄に燃え尽きて自ら灰となった。それでもまだ破壊は飽き足りていなかったのだ。どうせなら燃え滓にすら火にくべて、跡形もなく全てを気体に化してしまいたい。そうまですれば、神性に委ねるような、くだらない妄想に満ちた恋などできなくなるだろう。自分の身とともに焼け野原になったこの駅が呼び起こす感情はなくなり、この場所はただ乗換のためにだけ機能することとなるのだ。……ともすれば、近いうちにあの人がこの駅前を通って、気体になったわたしの一部を肺に吸い込むようなことがあれば……服従のていをした復讐は虚しくも完了することだろう。
 自分で燃やせないなら、人に燃やさせればいい。どうせ良くも知らないあの人と寝る予定だったのだ。相手が変わったところで大した問題ではない。ひと晩娼婦の真似事でもすれば、いよいよ自分に愛想も尽きるだろう。きっとこの男はわたしの全てを終わらせてくれる。
 わざと身を倒し、男の膝から太股に軽く上体を委ねた。
「……少し休めば、大丈夫です。すみません」
 わたしがそう言うと、男は一寸考えるような沈黙を作ってから答えた。
「そう。立てる? 近くに事務所みたいな部屋があるけど、来る?」
 わたしも考える素振りを見せつけてから、小さく頷いた。ずっと太い腕に引き上げられ、地面を足裏がとらえる。立ち上がると、厚みと幅がある男の胴の後ろに巨大ビジョンが放つ光が見え隠れした。満身創痍のわたしにとどめを刺そうとした女性グループの姿は、その中にはすでになさそうだった。

 男に連れられて、新しくも古くもないマンションの一室に入るや否や、わたしはうなだれるように男の腰に抱き寄った。彼はいかにも迷惑そうな表情を浮かべてみせながらもそれに応じ、わたしの背中に手を回してきた。抱きついてみたことで分かったのだが、その男は全身が『パトスの樹』のようで、満ち溢れる生命力が匂い立ってきた。それをなにか秩序立ったもので覆い隠そうともしていなかった。たちどころに唇同士がぶつかり合う。互いに剥ぎとった服は床に散乱し、ソファに至るまでに酒の瓶やら書類やらが蹴飛ばされ床を転がり滑った。
 得意げな表情でわたしを愛撫するその男には訝るべきところが全くないように思えた。わたしが歓喜の声を上げれば、その顔は満足したし、苦しさを訴えれば、複雑な表情を顕わにした。そのような単純明快な様はわたしをひどく安心させ、安心感は肉体の合一を事も無げにした。そこからの男の振る舞いは粗雑で少々乱暴だったにもかかわらず、わたしはそこはかとなく満ち足りていく感覚を得たのだ。
 もうひとつ、わたしを安心させたものは肉の感覚であった。その男の肉体や、肉欲の徴のことを言っているのではない。また好色漢が女を揶揄するような『肉』として、自己を卑下したものでもない。これは、自分自身が肉であることへの信頼である。快感にせよ苦痛にせよ、肉の得る感覚は、感覚を越えも割りもしない。在りし日に陶冶された思考も感情も手放して、感覚だけに没入していく感覚。精神が肉体を決して追い越さない感覚。それはただ肉であることでしか到達できない所業なのだと気付いた。

 部屋の窓からライトアップされた塔が見えた。いつもはその人工的建造物の背後に、叡智の結晶を、秩序の栄華を見ていたのだ。しかしこの夜に限っては、そびえ立つ山にも似た、ずっと原始的な生気の象徴として目に焼き付いた。
 射精をして完全に満足をした男は、当然のようにわたしを邪険に扱った。
「もう帰れよ、ねみいんだから」
 聞いたこともないのに、どこかで聞いたような台詞だ。なぜだろうか、こんな言葉も後からわたしを安心させたもののひとつになった。
 あの人に会いたくて、会えなかっただけ。たったそれだけの長い一日が疾風怒濤のごとく過ぎた。しかしこれで良かったのだ。これ以上待つことなど、わたしの肉が許すはずなかったのだから。
 寝入った男を放ってマンションを出た。終電に乗って自宅までたどり着いたわたしは、鍵もかけず、靴もぬがず、玄関で深い眠りについた。


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