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小説『あれもこれもそれも』1. ⑦

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
story1. 呪術的な日常 ⑦

 僕は首を傾げるようにママに頷いて見せ、常連客の方へ向き直った。彼は最近、店の女性を差し置いてまで、僕と話をしたがる。ボーイが客に好かれることは珍しくはない。この店に来る客はみな、後輩のような存在が好きだ。頷いて、黙って話を聞いて、一切反論することなく、ときおり目を見張って賞賛してくれるような、そんな人間を欲している。
 でも、この人が僕に求めるものは、多分それとは違う類のものだと思う。例えば彼がメグミさんと話している時であっても、ふと変なタイミングで熱っぽい視線を僕に向けてきたりする。直面したときには分からない。僕が他所を向いていたり、距離を置いていたりすると、時々その視線を感じるのだ。おそらく、気付いている? 僕が男を好きなことに。しかし振り返った瞬間には、その視線は消え失せていて、彼は彼の世界に戻っている。……行き来している人なのか、僕と彼の間には絶妙な時間のズレがあって、うまく言えないけど、その差異は2つの世界の伝導に関与したものではないだろうかと思ったりもする。彼が世界を行き来する度に生じる時間の差。生きている世界が違えば時間はズレる。ひと昔前の海外中継のような、Bluetoothのような……?

 ふと彼の手を見やると、左手の薬指に光るものがある。既婚者。一般的には、僕と違う世界に生きる人の証明書のようなものだ。そのシルバーの輝きは、僕固有の世界の法則とは全く関係なく、ただそこで無意味に煌めいている。2つの世界は完全に断絶しているはずだ。しかし、僕がここでバイトをして男女の世界を窺っているように、この客も多分窓の向こう側から僕らの側の世界をちらちらと窺っているのかもしれない。既婚者だからと言って、同性愛の世界に全く興味がないとは言えない。

「あれ、髪型変えたね」
「え、分かりますか? ママにも気付かれていなくて少し落ち込んでいたんです」
「前の方が良かったんじゃないかな」
「本当ですか。確かに今回は切り過ぎちゃって。変じゃないですか?」
「ははは。冗談だよ、大丈夫。良かったら一緒に飲まないか?」
 年に数回、こうやって僕らの世界の存在に気付いて窺ってくる人に出くわす。その好奇心は悪意の場合もあるし、純粋だったりもする。どちらかを見極めることは難しいから、いつも素知らぬ顔でやり過ごすようにしていた。
 僕は礼を言って、自分用のグラスを氷で満たす。常連客のボトルを手に取るとそれはやけに軽くて、傾けると液面がボトルの角で三角形を描いていた。
「そういえば、このあいだ健斗と飲んだ時にだいぶ減らされたな」
 常連客が小さくぼやくのを聞いて、僕は慌てて詫びた。
「あっ、本当ですね。すみません気付かなくて。新しいボトルはいかがしましょうか?」
「ああ、頼むよ」
「……はい、ありがとうございます」
 お店の売り上げになるのは良いことだけど、思うところはあった。お客さんの酒をガバガバ飲むなんて、健斗の奴。大体無くなりかけているんだったらちゃんと新しいものを勧めておけよ。何で僕がお前の尻拭いをしなきゃならないんだよ。
 棚から新しいボトルを取り出そうと後ろを向くやいなや、僕の両方の口角は真下にだらしなく落ちた。無理に引き上げようとすると顔全体がぴくぴくと痙攣する。自分の後ろ姿から愚痴めいたものが漂ってしまっていないだろうかと、心配になった。
 そのとき、突如として預言のような暗い声が響き、それは鈍器となって凄まじい勢いで僕の背中を殴打した。

「君は健斗を憎んでいるようだね」

 一瞬、何を言われたか分からず、僕の生命活動のほとんどが停止したようになった。一方で、おびただしい数の汗腺が過剰に活動して、額が一気に湿るのが分かる。おそるおそる振り返ると、常連客は何事もなかったような顔でボトルに残ったウイスキーを自分のグラスに全て注ぎ込んでいた。止まった呼吸がじわりと戻っていく。今の声は本当にこの客のものだったのだろうか?
 ややあって、少しばかり凝ったお通しの準備を終えたママが合流した。僕は緊張感をバーカウンターの下に必死に隠した。客もそれを掘り起こそうとはせず、後から入ってきた他の客たちの喧噪に埋没し、一旦忘れ去られた。


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