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アポロンの顔をして 5 【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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5


 繰り返すが、信愛の前では羞恥心など無意味だ。ここでは恥じらいはむしろ、飛躍するために勢いづける踏み切り板にさえなる。もしも、ずっとずっと現実的な相手だったならば、恥じらいは恥じらいのまま、貞淑を守るための抑制の機能を失わなかっただろうに。

 露わになった上体を見上げるあの人の表情は、法悦とも無心とも見受けられて、本意を見定めることは難しかった。しかし、その真黒い瞳はそれることなく、わたしのことを見つめ続けていた。どのくらいの時間が経ったか、およそこのビルの屋上から木の葉をほうって地面に落ちた頃合い。あの人は上体をゆるやかに起こして、二人はようやっと互いの背中に腕を回し抱き合った。わたしの背の中で肌寒いところとそうでないところが区分けされ、その境界は次第に溶けていった。顔をうずめた首筋からは深みのある落ち着いた香りが漂い、シャツ越しに触れる背は微かに汗が滲んで湿っていた。それは森林が長い年月をかけて蓄えた朝露が染み出ているようだった。あの人はその地で長く生活をしていたのだろうか、それとも樹木そのものか化身だったりするのだろうか。

 安らかさに満ち足りたわたしは思わず「いい匂いがする」と口にしていた。
「えっ、くさい? 何もつけてないけど、ごめん」あの人はそう言って一瞬慌てた素振りを見せた。
 身を離そうとする動きを感じ取り、わたしは回した腕に力を込めて抱き寄せ、逆に香りのする場所をめがけて鼻孔を押しつけた。それで心中を察してくれたのか、あの人はわたしの後頭部を大きな掌で包んで、猫のようになるわたしを赦した。
「かわいいな」
 その声はそれまで聞いていたものよりもだいぶ低く、鼓膜だけでなく胸の骨から背骨の下の方まで振動が伝わり、足腰に力が入らなくなった。あの人の鎖骨に乗せていた顎がずり落ちて額を胸に預ける。それに合わせて腕もだらりとして、少しだけめくれ上がったシャツとベルトの隙間に落ちた。温かい肌の感触、その吸い付くようなやわらかさ。
『肌を触れ合わせたい』
 わたしはその一心で手をもぐり込ませた。腰回りから背中のもっとも広い場所まで辿る。そのあいだ、きめの細かい肌がわたしの掌と心をいちいち刺激してきて、欲望は瞬く間に膨張し抑えきれなくなった。
『触れ合いたい!』
 シャツの裾を掴んで、一気に持ち上げようとした。が、それは一般的な前開きのワイシャツで、あの人の胸が見えるずっと手前で服は突っかかった。焦って手を伸ばした第二ボタン。しかし指は先端まで感覚が麻痺しているようで思い通りに動かず、ボタン一つさえうまく外せない。するとあの人はかじかんだようになったわたしの手を取り、そして優しく握った。それでも急いた気持ちが一向に静まらなくて、握る手さえ振り払おうとしたその時のこと。あの人はわたしの指に口づけをした。そっと。指の腹に一回、手を返して爪の辺りにもう一度。そして、たしなめる上目遣い。
 絶えずわたしの肉体を駆り立てていた動力源が、いったん沈黙したようになった……

 あの人は静かにベッドから降りて窓際に立ち、ワイシャツのボタンを上から順に外して脱ぎ、その次にはズボンまで脱ぎ去った。服たちがソファの背もたれに丁寧に掛けられていく。その挙動のひとつひとつをじっくり見つめている視界の片隅に、わたしが無造作に脱ぎ捨てたセーターが見切れて、このときようやく恥じらいが帰ってきた。
 下着姿になったあの人の後ろには縦に伸びる紡錘形の光。漏れ入る陽光。この期に及んで、これだけ人間らしい営みをしている相手なのに、それは逆光ではなく、やはり後光に思えたのだった。


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