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小説『あれもこれもそれも』4-0

story 1. 呪術的な日常 はコチラ
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story 3. 時の木陰にて はコチラ


小説『あれもこれもそれも』
story4. 退屈の領分 -0


 3ヶ月前にS県H市の旧歓楽街にあるラブホテルの一室で傷害事件が起きた。この事件の詳細を正しく知ることはおそらく不可能である。なぜなら、関係者の5人は事件のことをそれぞれ断片的にしか語らない。というより実際に断片的にしか知らない。5人はそれぞれが被害者であり、一部は加害者ともなった。そしてこの5人の他に、事件について一切を語り得なくなってしまった男が1人いて、名前は松田浩之という。
 関係者の証言によると、彼のみが事件の最初から最後まで現場にいて、一部始終を目撃しているようだった。最重要人物と言ってよいだろう。しかし男は事件直後に精神的不調を来し、県内の精神科病院に救急搬送された。そこで妻の同意により医療保護入院となり、その後今日まで入院が続いている。

 事件は奇怪としか言いようがなかった。概要はこうだ。
 30歳無職・吉岡早希は、麻縄によって縛り上げられ半裸状態で倒れていた。彼女の手首足首には無慈悲に拘束された跡が残っていたにもかかわらず、抵抗した形跡はどこにも見当たらなかった。また彼女の性器からは現場にいた21歳大学生・田中健斗の体液が確認された。状況から強制性交等罪やそれに準ずるものの疑いもあったが、拘束も姦淫も合意の上であったと早希自身が証言したため、その件に関して男は罪には問われなかった。

 しかし健斗はその現場で、同じ大学に通う20歳大学生・槙島拓人に対して殴る蹴るの暴行を加えた。「頭に血が昇った」と言うが、どうしてそのような精神状態になったかは全く覚えていないという。一方で拓人の方はズボンのポケットにナイフを所有しており、それを用いて健斗の右腕と左足に浅い切り傷を付けた。それだけでなく健斗から反撃の暴行を受けている間ずっと、四つん這いになってホテルの床にナイフを繰り返し突き立てていた。奇妙なことに、この床の傷の方が、深く、そして執拗であった。現場にいたことや、不可解な行動やナイフを所持していた理由については、一切口を閉ざしている。

 35歳の市内会社員・森井芳彦は後から現れ、健斗と拓人を制止に入った。仲裁が過剰になってしまったためか、健斗を突き飛ばし大怪我を負わせた。それによって一連の騒動は終わりを見せたかのように思えた。しかしその後、森井は静観していた松田浩之の胸ぐらを掴み、顔面を何度も平手で叩打し始めたのだった。
 森井と共に現れたのは、松田浩之の妻であり、森井の高校時代の同級生でもある松田佳美(旧姓・森田)である。夫が暴行を受けているにもかかわらず彼女は動揺することもなく、ただ冷静な態度で警察に通報した。そして拓人の手からナイフを奪い、それを用いて早希の拘束を解いた。

 松田浩之に対する森井の暴行は、誰にも止められることなく続き、彼の顔面は警察が到着したときには真っ赤に腫れ上がっていた。松田に精神崩壊の兆しが訪れたのは、その後である。それまで彼は壁にもたれるように座っていたのだが、呪詛のような意味の分からない言葉を呟き始めたと思ったら、立ち上がり、次第に大声で喚きながら暴れ出したのだった。

 彼らの間柄には不詳な点が多く、面識が全くない者もいた。事件後半の大部分を占めたのは森井による松田への暴行であったが、この2人も初対面だったそうだ。このような事件が起きたこと自体が不思議でならない。
 被害者・加害者たち全員と接点があるのが唯一、松田浩之であったが、関係者の〈松田浩之〉像が一致しないことも問題である。健斗と拓人、そして彼らのアルバイト先であるラウンジ〈つれづれ〉のスタッフの証言では、松田浩之は話好きで理知的なジェントルマンだったそうだ。このような奇怪な騒動の関係者になるとは信じられない、といった声が多かった。その一方で、店のママだけは事件のことを聞いて表情を変えることなく、ただ俯いていた。
 同性愛者である拓人は松田から好意を寄せられていたとも証言しており、実際事件の当日に2人はドライブに行っていた。早希は松田と数年来の愛人関係にあったが、彼は冷酷で性に放逸な部分もあったと言う。彼を知る上でもっとも重要と思われた妻の佳美は、1人娘の父親としての像しか語らず、それは概ね良いイメージのものでしかなかった。

 もちろん、これらの像は1人の人間の内部に共存しえない範囲のものではない。実際、彼は養育環境、学業、社会生活のいずれにおいても問題らしい問題を起こしたことはない。
 しかし後の精神崩壊を加味するとどうだろうか。病的とは言わないまでも、不健康な精神状態があらかじめ横たわっていたのではないだろうか。その綻びは、彼を知る人物からの証言や、松田の所有物にある痕跡などに、全く見出せないわけではなかった。

 これまで槙島拓人、吉岡早希、松田佳美、3人の証言を読んできたのだが、それでもいまいち松田浩之という男のことが掴めてこない。どことなく不安定さが影を落としているのが見えるだろう。松田はいったいどういった人間なのだろうか。残された記録はそれぞれが短いものであるが、数少ない確かなものとして提示する必要がある。繋ぎ合わせればもしかしたら彼のことが少しは理解出来るかもしれない。
 この手記の目的は、事件の詳細・真相や動機を明らかにすることではない。『あれもこれも』と生きて壊れてしまった男の断片を拾い集めて、ただ保管するためだけのものである。弔辞のようなものと捉えてもらってよい。語るのは……もちろん関係者でもなく、警察でもなく、精神科医や臨床心理士でもない。本人かと聞かれれば、そうではないとも、そのようであるとも答えるかもしれない。


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