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ノアのぐちゃぐちゃ【掌編1000字】

 方舟が完成し、ノアの一族と動物たちが乗り込んでから、いよいよ七日と七晩が経とうとしていました。

 初日に降ったのは、オレンジを絞った果汁の雨。おそらく内海沿岸に群生していたオレンジの木々でしょう。大渦に飲まれ、果実が花火のごとく打ち上がったのです。世界は終わるというのに、弾ける柑橘の香りに誰もが愉快な気分になったのでした。

 次の日は緑色の雨。それは種子の中で密やかに発した芽の、柔らかな柔らかな緑でした。動物たちはその雨に恵みの森の再生を期待しましたが、そうはなりません。地球を埋め尽くしたのは種子。希望という名ばかりのただの種子でした。

 紫、今や廃れてしまった宗教の、司祭たちが身につけていた法衣が雨を降らせました。神も信徒も消え失せましたが、法衣の意識だけが残っていたのです。撫でつけられた売り物にならないラピスラズリの粉末。それらが霧雨となり、地球を紫煙に包んだのです。

 黄色い雨はなんと未来からやって来ました。巨大な携行缶がひっくり返されると、Yellow (#FFD800) のインキが世界中へとぶち撒けられました。いったい誰がこんなことをしたのか。不思議なことにこのインキは、大洪水によくmatchして、惨状を前衛的なアートに変えたのでした。

 青はそう、海の色そのものですが、大洪水は定まらない色を好みません。そこで白羽の矢を立てられたのがオオルリアゲハの翅……ではなく赤子の尻(!?) 雨が、尻から抽出された色素を含んでいたことは、方舟に乗る誰にも知られず、その1日は素知らぬ顔で過ぎていきました。

「藍色とは難しいのではないか、青といったい何が違うのかね?」と、学者気取りのノア次男の憂慮が、まさに藍色の雨を降らせたのでした。

 さて、最後の日は赤い雨が降ると予測され、確かにその通りになったのですが、〈大方の人たち〉が危惧していたような〈血の雨〉ではありませんでした。それは酸化した土、つまり赤土の雨でした。
 ノアの一族は粘土でどんどん重くなる服を脱ぎ捨て、みな素っ裸になりました。太ももが埋まるくらい赤土が積もったあたりで、雨はようやく止みました。小動物らも牛や馬の背に逃れ、なんとか生き埋めを回避したのでした。

 雨上がりの空に虹は架かりません。ぐちゃぐちゃな色が広がるばかり。

 さて〈大方の人たち〉とは誰のことだったのでしょうか?
 よく知られた伝承では、この後ノアが鴉と鳩を放つそうですが、そんな話は額縁の内の画に過ぎません。
 空と海と大地に、出鱈目に際限なく色を塗っていく人たちが、我らの祖先だったのです。


── Fin. ──

ちょっと冒険をしてみました←

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