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小説『あれもこれもそれも』1. 11

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
 story1. 呪術的な日常 -11

 洗い物を始めようと流し台に両手を突っ込んだそのとき、「なかなか良かったよ」と常連客が僕の演奏を讃えてきた。手を髪に付けぬよう後頭部を掻く仕草をしてから、チーズがこびりついた皿を手に取った。彼は僕の挙動の1つ1つに温かい視線を向けてくるようで、そして改めて声をかけてくる。
「拓人は柔らかい感性を持っているなぁ。いい選曲だった。ドビュッシーが好きなんだ?」
「はい、昔から好きです。それに……」
「それに?」
「こういう場所ではおトクなんですよ。そんなに難しくない曲だけどそれなりに聞こえるし、テンポが揺らいでも、元々そういう曲にもごまかせますし。間違えてもあんまり気にならない。って、僕がそう思っているだけですけど。他の作曲家はもっと厳格で、それを許してくれない気がして。真面目な人には怒られてしまいますね」
 自分がそれほどピアノに情熱を注いでいないことは、できるだけ客たちに伝えるようにしていた。リクエストが過剰になるのが嫌だからだ。ピアノのレッスンをやめてもう3年経つ。今更、難曲を弾いてほしいとか言われても正直困るし。
「謙遜するんだな。でもさっきのおトクって言葉は良くないね。曲の包容力に甘えることは決して悪いことではないから」
「……確かにそうかもしれません。ありがとうございます」
「そうだな。こういう場に似合うとでも言っておけばいい」
 自然な笑みと明快な答えが返ってくる。この人は真に大人なんだろうと思う。本当はものすごく高いところにいるのに、僕のいるところまで降りてきてくれる、紳士。
 珍しく「メニューが欲しい」と言う。いつもはキープボトルしか飲まないのに。壁に立てかけてある真紅のレザーカバーの厚いファイルを手渡す。彼は何度かページをめくると、フランスの蒸留酒を僕の分も併せて2杯注文した。「良い音楽を聴かせてもらったお礼に」と。粋なオーダーに魅力を感じた。そしてつい、芳彦と比べてしまった。芳彦はいつもビールばかり飲んでいて、この間も痛風発作を起こして飲酒を控えているところだった。
 僕が棚からカルヴァドスのボトルを取り出そうとしたその時、

「先日はご馳走様でした!」
 突然横から割り込んできたのは健斗だった。いつの間に外から戻ってきていたのか。
 最近の健斗の容貌はますます店に相応しくないものになってきている。こんだけ日焼けした若い男が白シャツに黒ベストを纏うとどうなるか、このサッカーバカはちゃんと理解していないようだ。彼の後ろには立ち並ぶネオンが見えてくるようだった。髪の色も少し明るくしてて……胸元に金のネックレスが似合うことだろう。
 指先から足先までピシッと一直線に揃えて礼をする慇懃な健斗に対し、常連客は気恥ずかしい雰囲気を演じつつ余裕のある態度であしらっていた。
 そして、健斗がゆっくりと頭を持ち上げ、僕とは真逆の方向にあるビールサーバーへ振り向こうとしたとき、連続写真のように彼の顔が切り取られ、その1枚が……たった1枚が、僕をちらりと窺う瞬間を捉えた。
 驚愕した!
 初めて大学ですれ違った時と同じ目をしているのに、今は全く違って見える。軽蔑ではなかった。その目は確かに怯えていた。〝魂の危機〟に怯えた暗い目だった。
 僕はこのときようやく、健斗の心理を少しだけ理解したのだ。きっとシャンカラがラマに向けた気持ちと同じなのだろう。
 そして僕も……たぶん僕も、彼にこんな目を向けていたのだろう。互いに脅威を感じていた。君にも僕にも、古代的な感情が残っていたんだ。
 バカだな。大丈夫だ、健斗。僕らがこんな時代に何を見せつけ合う必要があるんだ。呪い合うことなんてない。だって、そもそも違う世界で生きているのだから。互いに自己の存在性に不安を抱く必要なんてないんだ。
 だけど、違う世界で生きていることを知り得ない君が、もし僕を呪わしく思うのなら、僕ももうしばらく君のことを呪わしく窺っていることにするよ。いつか互いにどうでも良くなる日が来ると思うから。
 ……そのように諦めてみたら、健斗の後ろ姿をゆったりと見つめることができた。彼のことを考えるたびに落ちきっていた口角が、少しだけ緩んだ。


story1. 呪術的な日常 は次回が最終話です。
*過去の話はコチラから*


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