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小説『あれもこれもそれも』 2-1

短編連作小説『あれもこれもそれも』のstory2です。story1「呪術的な日常」はコチラから

小説『あれもこれもそれも』
story 2. 遊女の廊下 -1


——小紫様、これから仕事をして参ります
 エントランスをくぐり、そう呟いた。

 恋人に呼ばれて行った先はラブホテルだった。旧い歓楽街の中心に位置するバリニーズスタイルのホテルは、いくつかの飲み屋ビルの出入り口に囲われていて、人の出入りが目立つ。
 バリニーズと謳っていても、実際は合成木材を塗装やニスでそれっぽく見せかけた家具や、どこでも手に入りそうな観葉植物や石彫りのオブジェが置いてあるだけの野暮ったい内装だった。そんななのにホテルはインドネシアのリゾート地の名を、悪びれもなく借用して高らかと名乗る。乳液やヘアトリートメントだって水道水で薄められているようだ。こういうの、なんて言うんだっけ……そうだ、羊頭狗肉、まさにこのホテルのことだ。
 あえて1つだけ良い点を挙げるなら、清掃は細かいところまで行き届いていた。きっと女たちは表向きの雰囲気と清潔感だけで、何かを守れた気になる。それで安心し満足し、ついでに男に抱かれ、他のホテルよりも数千円高い金を払わせる。中にはその数千円の付加価値に一喜一憂する女もいるようだけど、きっと彼女たちはそれで何かを守られた気になるのだろう……私にはあまり関係のないことだ。お金はお金でしかない。

 人目に配慮されていない螺旋階段や、無駄に広くて長い廊下にもいい加減うんざりしていた。けれどなにせ地方では選択肢が少ない。郊外にでも出ればまた違うのだろうが、名古屋には街中にもう少し上質なホテルがあった。いまだに信じられないけれど、愛知県よりもここの方がラブホテルの数はずっと多いらしい。それだけ数があるのならば、男女のひとときの密度を高めてくれるような良いホテルが、もう少し見つかってもよいのではないかと思う。
 ……不平不満が多くなっているのは、おそらくホテルの質うんぬんのせいじゃない。こんなハリボテのホテルであっても、恋人と来て、ときめきに満ちた時間を過ごした過去が、私にもあったのだから。
 今日は恋人に呼ばれたと言っても、私がこれから会おうとしているのはその人自身ではなかった。彼の依頼で、また別の男に会おうとしているところだ。その苦い事実が、廊下を歩く私の両足に鉄枷をつけているようだった。ハイブランドのサンダルがいくら私を励まそうとも、気持ちは一向に重くなっていくばかり。


 恋人が単身赴任で名古屋に現れたのは、もう5年も前のことだ。
 新設の商業施設の天井には水と光による波紋が映し出され、私の夜の倦怠を洗い流してくれていた。見上げた視線を少しばかり横にやると、星座の煌めきは街明かりの勢力に押されていた。人工的なイルミネーションは、そこでは本物の星空よりずっとゆるやかな時間を感じさせるものだった。そんな場所で出会った恋人と私が、すれ違うはずはない。彼の虚ろな瞳は私の思考を閉じ込め、あの低い声は一瞬で体を縛り付けた。
 それから少しして……初めてセックスした日のこともよく覚えている。何というか、クラシック音楽のコンサートを観に行ったかのような時間。それは、綿密に計算された時間配分や構成のもとに、厳かに行われた。
 飽和へと向かい、飽和をくぐり抜け、勢い余って天が見えた。到達した調和はいくばくかの時間続き、本当に一瞬の出来事で遠心力を繋ぎ留めていた糸が切れた。支えを失った2人の体は、互いを抱き留める暇もなく空中に放り投げられた。部屋中には様々な、声や体液や肉片や歴史が飛び散った。そのさまを、宙に浮いた男の二つの瞳だけが冷たい眼差しで見下ろしていた。
 そう、彼は確かに完奏したのだ。演奏が終わっても圧倒され固唾を飲んだままでいる観客たちを、静かに見下ろして支配する、孤独な奏者だったのだ。


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