見出し画像

アポロンの顔をして 8 【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

↓過去話はコチラから↓


8


 沖縄で有名な銘柄のブラックエールを片手に、あの人は上機嫌だった。国内の大手メーカーやドイツの黒ビールと比べて香りやコクは引けを取らないのに、圧倒的に飲みやすいという。大学時代によく沖縄を旅行したそうだ。それが高じたのか、エキゾチックなものに魅了されるようになり、今では東南アジアの各国に年に一度以上は出掛けていると言った。この時までにさまざまな種類と光度の照明の下で眺めてきたが、あの人とオリエントはうまく結びつかなかった。わたしがアポロンの姿を重ねているからだと言えばそれまでだが、事実としてあの人の造形には西洋的清潔感が前面に出ていることは疑いようのないことだと思う。日焼けをしない肌なのか、そうであれば旅行から帰ってきて真っ赤に炎症を起こした肌も見てみたい。

「このあいだのライブ、どうだった?」
 わたしの言葉を受けて、あの人は少年のような表情で雄弁に話し始めた。しかしそのライブのセットリストに上がっている、今こうしてあの人に嬉々として語らせている曲たちは、どれもわたしの知らないものだった。デビューから20年近く経っていた。バンドの方向性の転換か、はたまた音楽業界か社会経済の影響か、良く言えば『力の抜けた』、悪く言えば『あっけらかんとした』時期があったのだ。多分その頃にリリースされた楽曲たちだろう。
 わたしの棚の中に眠っているロックバンドは違う。どんなに愛や希望を謳っていても、絶望の引力に負けてどこかその色を帯びてしまう青のバンド。17年前、亡くなったわたしの知人は彼らのファーストアルバムの中から2曲をとくにすすめてきた。自ら作り上げた不安に駆り立てられ逃走し焦燥するような刺々しいギターが印象的なロック。そして日常の憂きことを世界の相対性と無常に還元していくような哲学的なバラード。この2曲だけは棚にあるアルバムだけでなく、今はもうないMDや古いMP3プレイヤー、そして今の携帯電話にもクラウド上にも保存され、とうぜんわたしの脳にも確と刻まれている。その知人はとても賢い人だった。哲学者のような面差しで語っていたあのたった数分間だって、曲とともにいつでも取り出せるのだ。

「きみはどんな曲を聞くの?」
 ひと通りライブの感想を話して満足したあの人は、わたしの好みの方へ話題を展開しようとした。しかしその道徳的な顔が、わたしを少しばかり苛つかせた。ずっとあなたの話を聞いていて良かったのに、と。
「わたしは昔から……」渋々とある女性グループを挙げた。彼女たちも20年続くアーティストだった。するとあの人は、
「あー、俺もよく聞くよ。2007年の頃とか特に最高。最近の曲もいいよね」と言ってビールを飲み干すと、おかわりを頼もうと店員を呼んだ。相変わらずあどけない表情のまま。わたしは「何言ってるの、最高なのは1999年頃だよ」という言葉を、黒糖の効いた梅酒とともに飲み込んだ。

 体の交わりのあと、緊張が解けて本性が出るのは仕方のないことだ。その本性だって全く悪いものではない。ごく一般的な趣向も、男の子らしい表情や話しぶりも、むしろ好感を持つに値するものだ。押し黙って邪険に扱うような男、事が終わったらすぐ立ち去る男だっている。そんな話は友人同士の会話にも、ネット上にもいくらでも転がっている。
 しかしあの人は、完璧な秩序を作り上げたのちに、ベッドの上でそれを完全に打ち壊したのだ。神がかった姿形をして。そうやってこれだけわたしを変革させておきながら、いまの飄々と友達を相手にするような態度には、違和感を覚えた…… 

 それなりの量の酒と、やや上品に拵えられた沖縄料理は、わたしたちを充分に満足させた。あの人は手前にあるJR線から、わたしはそこから数十メートル離れた地下鉄から帰るのが一番近いようだった。列車の走る高架の真下にあるJRの改札、そこでわたしたちは別れることになった
「じゃあ」
「じゃあ、また」
「また、連絡するね」
 どちらがどちらの台詞を言ったか、それはわたしの記憶からは滑り落ちている。
「……あのさ」
 あの人が構内に向かう足を止め、軽く振り返ってそう言った瞬間。そこに見たのは先ほどまでいた人間の少年の顔ではなく、やはりアポロンのそれだった。遙か遠くを見つめるような眼差しを受け、その日のもっとも神々しく官能的な時間がフラッシュバックする。心臓の鼓動が二、三発、激しく脈打つ。しかしすぐさま轟音、振動とともに列車が乗り入ってそれをかき消した。「ほら、電車来たよ」と私が促すと、あの人は改札の奥、階段の先へ、さっさと消えていった。これがあの人の姿を現実に見た、最後の瞬間になったのだ。


#小説   #連載小説 #創作 #mymyth

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!