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逃げながら立ち向かう

僕は今、2,3うまく行かないことを抱えている。たった2,3だけれど、すごく大きな2,3だ。
小さな問題を虫眼鏡で見てるんじゃないか?というような指摘は散々受けてきた。
でも物事を客観的に見る手法を持ち合わせていないわけではないし、色んな立ち位置を想像したうえで、やはり自分にとって大きな2,3だと言わざるを得ない。

何かが立ち行かなくなったときの原因はたいてい複合的だ。努力不足もあれば、環境が整っていないこともあるし、残念ながら機運やご縁がないことだってある。
そういう時に、「そもそも無理だった」「そもそも目指してなかった」と、そもそも論に行く人がいる。「科学的には」「行動心理学の見地からは」と、原因と対策の究明に勤しむ人もいる。みんな明解な答えを欲しがりたがる。
一方でうまく行かなかったときにただ人のせいにすることもできる。そうしている人を見るのは好きではない。ものすごくカッコ悪いし、人のせいにしたからといって解決する問題などない、と冷めて見てしまう。

しかしそんな風に考えていても、僕はこの2,3のうまくいかない原因を「或る人との関係が原因だ」という一点に落とし込める方向に心が向いてしまう。そこから離れようとしても、どうしても向かってしまう。
当時のその「人のせい」が実際どれくらい効力を持っていたか、どれくらいの寄与度だったかは、今となってはは分からないけれど、現在持っている感情としてのウェイトはかなり大きい。これでもだいぶ手放せるようになってきたけれど、まだまだ重い。

人にやたらと干渉すべきではない。それがどんなに親しい人であろうと。いや、親しい人だからこそ。
憲法というものは非常に便利なもので、人が生きる上で倫理とか道徳といったものの最低ラインが記してあるものだ(効いているかは別にして)。人のそれを侵害してはならないと思う。
不思議なことに、その最低ラインを保証しないくせにより上位の倫理道徳を求めたがる人がいる。複雑化した世の中の最低ラインの倫理がままならない中で、過去の共同体の価値観で称賛された遺産のような道徳を要求してくる人がいる。こういう人からは逃げて身を守らなくてはならない。

もし僕が10年前と20年前のある時点で、「逃げる」という選択肢を取れたら、今の生きにくさは少しは軽減されているはずだ。もちろん別の生きにくさはあるだろうけれど。

たとえ2,3の問題が解決しなくとも、辛さという状況は乗り越えられないものではない(多くの状況は時間が解決する)。しかし問題は、誰かのせいにせざるをえないという感情の方だ。こんな感情を(推定)一生涯抱かれる可能性があるわけで、やはり人の生き方につべこべ言うべきではない。
「許す・赦す」という言葉も行為も意味も有用性も散々知ってきたけれど、ごめん、今はそちらに心が向かない。きっと少しずつ……ね。

芸術の秋。大好きな秋。肌が乾燥したって、鼻がむずむずしたって、心豊かに穏やかでいられた。残念ながら、今は秋を感じるような気持ちの余裕がない。
お目汚しして失礼しましたが、noteに負の感情を預けたことでできた余白に、少しばかり秋の空気を詰め込みたい。

書いていてふと思った。抽象的な概念としての表現を選ぶのは、人への配慮のためもあるけれど、醜い自分を覆い隠すためだ。
良いことも悪いことも具体的に書けるようになってきたら、何か変わるかもしれないな。
乱文失礼しました。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!