勝手に禁書認定 【エッセイ】

手元にある書の装丁があまりに美しく、そのせいで未だに開けないでいる。「さっさと読めよ、本なんだから」なんて無粋なことを言わないでほしい。装丁には魔力が込められている。それは持ち主の手を取って強引に開かせもすれば、逆にその手を頑なに拒むこともある。

「ちゃんと整えてからひらけよ?」
そんな風に言われている気分だ。

整えるとは、心をか? 思考をか? それとも生活をか? じっと見つめ返してみるが、書はいつからかツンとして口を閉ざしてしまった。どうやらまだ歓迎されてないらしい。とりあえずジップロックに入れて持ち歩く(鞄の中で紙が折れるのが嫌だから)

今はこれしか積読つんどくがない。珍しいことに。普段なら4-5冊の未読の書が、本屋の袋に入ったままで床に投げ出されている。神話、宗教、詩や小説……無作為に手を伸ばした先で、いつでも気楽な本が指に触れるはずだった。しかし今はそれがなく、今の僕には君しかいない

片思いの期間が長過ぎたがゆえに告白できない恋のようになっている。

読みかけの本が1冊だけあったので、失礼と存じながらそちらを開いて渋々読んでみる。しかし横目で本命女を追いながら読む本が面白く感じられるはずもない。真剣勝負(没入)を避けて楽しめるほど読書は甘くない。その子に「ごめん」と言ってそっと閉じる。わずか数ページで途切れてしまう集中力。これを恋と呼ばずしていったい何が恋だ。

この懊悩はウェルテルっぽいなと思い至り、ゲーテの書を開いてみる。しかし結果は同じこと。重症だ。

その美しい書は、読む以前からすでに尊いのだ。

尊いとは、好きと理想化と畏怖の希少な三連コンボだが、一塊となって格別な情趣を醸してくる。尊いが尊いものだから、尊いは拡張増幅されて全宇宙に充ち渡り、ますます尊くなる。
(先日、友人にヲタクと非ヲタの境界線は「尊い」を使用するかどうか、と諭された)

もう10年ほど前のこと。超有名アーティストの地方公演で、でっかい会場の4列目の座席を引き当てたことがある。チケットを取ったのはFC会員の僕だが、非ファンの後輩を同行させた(あ、もしかしてパワハラだったかも……)
ライブ中、手放しにはしゃいでいたのは後輩の方で、僕は微動だに出来なかった。動いてる、歌ってる、生きてる、そのことに圧倒されて、正直そのライブの全容はあまり覚えていない。
推しが近づいてきた時、周囲の観客がこぞって身を乗り出して、後輩が僕を見やすい場所へといざなった。しかしその気遣いを反故にしてまで僕は立ち尽くしていた。どうしても動かなかった足の感覚だけが脳に鮮明に焼き付いている。

いったい何を恐れているのだろうか?
心の動揺か、魂の変革か。
もし現在の自己への愛着がそうさせているのなら、「くだらない」と嗤うくらいしかできないぞ。

とはいえ書による変革のおそろしさはよく知っている。たった一作の創作、たった一冊の鑑賞、その変革作用を侮ると痛い目にあう。思考が180° 変わってしまうことすらあるのだから。
不思議なのは、その本が誰かにとっては全くの無効でもあること。なんの感動も生まず、なんの作用も及ぼさない。なのに自分にだけは深く深く深く刺さり、えぐる。

名作や有名作品なら多少は気が楽なのだ。えぐられるのが自分だけじゃないから「良かったよねー、流石だよねー」と手軽に感動を共有して、いつも通りの明日を迎えられる。
ただ自分にとっての名作が社会的名作とは限らない。鮮烈な感動を人と共有できないとき、人は途方に暮れるしかない。共感で発散することもできず、言葉で整理することもできず、アクリル絵の具が沈澱するかのごとく、消えない澱が心底に溜まる。

あらためて美しい装丁を見下ろすと、そんな予感がぷんぷん漂っていた。
やはりこの書はまだ開けない。

書き殴っただけの日記です。乱文にて失礼しました。

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