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アポロンの顔をして 14【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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14


 玄関のフローリングってこんなに冷たかったのか。目覚めたわたしはしばらく頬を床につけたまま動かずにいた。自分の体温も低いから、いくらつけていてもどちらも温まらない。全身の筋肉痛がひどくて、そこから動く気にもならなかった。
 いま何時だろうか、会社に休む連絡を入れなくては。そう思い、仕方なく体を起こす。足下に靴と一緒に転がっているバッグを手に掴み、携帯電話を取り出す。出社時刻はすでに過ぎていて、会社からは電話が2件、メールが1件来ているようだった。いいや、人生初の無断欠勤だ。わたしは真面目に生きてきた。人の無断欠席や欠勤に対して、幾度となく尻拭いをしてきた。今日くらいいいだろう。そう思うと足腰の痛みも少し和らいで軽くなった。昨日あの人から届いたドタキャンのメッセージにもまだ返信をしていなかった。返していないわけだから、重ねて謝罪がくるわけがない。しかしそれを期待してしまうことも無理のないことだと思う。
 ただ感情が湧き出るままにして、それらの原因や意味は問わないようにしようと思った。そうでなければまた妙な秩序が生まれて、せっかく心身を燃やし尽くしたことが全て無駄になってしまう。
『何か食べよう』
 その意志が胸中に顔を出したのはどれだけしばらくぶりだったことか。この部屋で孤独を耐え忍んだ3週間を思い返してわたしはぞっとした。なんと病的だったのだろうか。冷蔵庫はすっかり空になっていたが、少し前に実家の母が送ってきたレトルト食品があった。それを取り出し、電子レンジで加熱して食した。地方の老舗料亭がプロデュースしている和風リゾット。塩っけと温かさが舌にベターっと広がったものの、風味というか、複雑な味までは感じ取ることができなかった。しばらくリハビリテーションが必要みたいだ。それでも、喉元から胸の裏を過ぎていく熱を、みぞおちは拒絶することなく受け入れていた。そのことだけで今日は充分だった。

〈母が地元から東京に来ているようで〉……ふと、あの人の書いた文面が脳裏をよぎった。あの人の母、アポロンの母が来ている。まさかあの嫉妬深い女神ヘラが、古代ギリシアから時を超えて?
 なんてね。わたしが〈それならしかたないですね〉なんて返すとでも思ったか。見え透いた嘘をついて。馬鹿にしないで!
 わたしはテーブルを拳で強く叩いた。
 想いを浮かぶままにしてみると、秩序を捨てると、その行き先はだいぶ変わるものだ。怒りの勢いを落とすのがもったいない気がして、ノートパソコンを立ち上げて検索サイトを開く。アポロンなんて呼んだって、あの人なんて恭しく言ったって、ちゃんと本名だってフルネームで知っているのだ。画面中央にある四角の中に、いとおしくも、にくい、名前を入力する
……ふぅ、Enterキー『ダンッ!』
 検索結果が流れていく。同姓同名の研究者の論文や、地方の中学生スポーツ地区大会か何かの名簿、姓名判断……そして見つけた。結婚式場の宣伝を兼ねたスタッフブログのサイト、2年前の6月の記事のようだ。その見出しをクリックすると、『本日ご結婚おめでとうございます!』と書かれたデザイン文字と共に、2枚の写真が映し出された。
 1枚目は満面の笑みを浮かべた綺麗な花嫁と、手を取り合ってブーケを突き出している定番のカット。引きつっているあの人の笑顔が、わたしの失笑を誘った。そして2枚目は、花嫁をメインにした斜め後ろからのアングルだった。大胆に背中の開いたドレスは一度は憧れたものだ。そして彼女の視線の先には、純白のタキシード姿をして、赤い絨毯の敷かれた階段の中ほどに佇む後ろ姿。少しばかり振り返って花嫁の到着を待つあの人には、当然ピントが合っていない。
「なにこれ、ボケてる。おっかしいー」
 突然、笑いがこみ上げ、大笑いになって、止まらない。声をあげる度にみぞおちが苦しくなり、それは心臓へと喉へと、眉間へと放散した。こみ上げてくる何かを堪えようとクッションに顔を埋めた。
 階段の中ほどで待つあの人、最初の晩もそうだった。ステンドグラスから光の差し込む階段と、弱い電灯が照らす仄暗い地下の階段と。シーンの差はあれど、2つとも同じアポロンの顔をしていた。
 感情の高まりは引き潮のようにゆっくりと大海原へ還っていく。あまりに有り体な事実に脱力し、頭から尻まで、背面全てをソファにあずけた。
『なんだよ、ただの既婚者の遊びだったのか』 

 わたしは最後に一度だけ、夢想することを自分に許した。体を重ねたあの日、沖縄料理店からの帰り道。改札前での別れ際に、あの人はこう言うのだ。
「……あのさ、ぼく結婚しているんだ」
 そこに列車が乗り入れてくる。
「そうだったんだ。早く言ってよ。じゃあ……バイバイ」
 あの人を乗せた列車は、彼を無事に家族の元へ連れていってくれただろうか。

 幾日経ったのだろう。夏の盛りにはなっていないものの、今年は気候が不安定なせいで、日付の感覚がよく分からない。風邪を引いたりもした。今日も季節感の全くない地下鉄の車両内に、アナウンスが響きわたる。
『次は〜……、次は〜……』
「もうその駅はないじゃない」
 あれから何度この言葉を呟いただろうか。抑揚のないただの条件反射。人工知能ロボットはおろか、オウムよりも言語能力が落ちている気がした。
 すべて望んだ通りだ。駅はわたしの身とともに焼け野原になった。今でも平日の朝晩に乗換えているが、いつのときも一面灰色だ。ウィンドウショッピングは止めた。買い食いも止めた。通り過ぎるだけ。その甲斐あってか、スーツ姿の男は全く平気になった。時折、本当にあの人に似た男性を見かけて、一瞬ドキリとさせられることはあったが、恍惚に入ることも、慌てふためくこともなかった。ギラギラした黒い男のことも、あれから一度も見かけていない。もしかしたら、すれ違っていることくらいはあるかもしれない。しかし視界を狭くしていれば、『中心だけ見ていれば生きることはたやすい』 新しい恋でも始まれば、そのうち街に色も付くだろう。 
 帰り道、駅の南口。フロアの一隅に色を見つけて、わたしはまた立ち止まった。円を作り、思い思いのかたちで地べたに座る若い男たち。また音楽に合わせておのおのが自由に体を揺らしている。灰色の駅で彼らの周囲にだけ色が付いていて、何もないはずの円の中心には鮮やかな色彩の塊が蠢いて見える。わたしは遠い場所に留まっていられず、吸い込まれるように集団に近寄っていった。色が、色が近付いてくる。
 気がつくと、もっとも手前で寝そべっている若い男に声をかけていた。
「ねえ、わたしも座っていい?」

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