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朗読の日は雨

詩の朗読をしようと思って、やめた。
雨音がうるさいからでなく、雨音の邪魔をしたくなかったからだ。自ずから然る音に、ただ聞き入っていたい気分になっていた。
雨について想うことは多い。梅雨生まれだし、雨男だし、何かと縁が深い。

人の意志や行動は、人が思っている以上に、天候に左右されているのではないか。晴れているから出かけるとか、雨だから家にいるとかいう、物理的な要因だけでなく、自然現象は人のもっと奥深いところに浸み込んで、人を左右している気がする。同じ雨でも、夏の雨と秋雨では、雨宿りする場所も変わりそうだ。どことは言わないけれど。

足が向かう先はいつだって頭や心が決めていると思っている。けれど実は、前線や雲の配置や空気の密度なんかを察知する隠れた器官が体内あって、その都度、最善の選択をしているのかもしれない。そうだったら面白いな。内耳だとか言われたりもするけれど、解明されていないことにそれっぽい仮説を立てて、それっぽい論理を組み立てるのは大人の悪い癖だ。ほら、足裏をアルコール消毒すると蚊に刺されなくなることを発見したのも16歳だったよね。真実はいつも関係ないところにある。気候を察知する器官はお尻にあるかもしれない(笑)

自由意志は存在するか……という話になるよね。経験論・結果論になるけれど、極論を言えば存在しないと思っている。哲学的論考をしたいわけではなく、人はどこかで何かのせいにしなくては、辛くなってしまうのではないかと思う。過去の宗教家たちは人の生きづらさに対峙する感情を、神様の意志や、業や縁起に託した。あらゆる不幸を引き受けるには、この身は小さすぎたから。

よく言われる「肩の力を抜け」は、おそらく「10のうち9は決まってるから」に言い換えられるように思う。周りにいる人や、その日の気候や、電車の混み具合だったり昨日の晩ご飯なんかが、多くのことを既に決定しているから、「10のうち1くらいは頑張れ」で良いのだと思う。
「勉強なんかしなくていいから、とりあえず机の前に座って教科書を開いておけ」というのは、このような法則を巧みに利用している。これで勉強を始められる人は多い。

ほらね、雨と気分の話をしたかったのに、いつのまにか勉強の話にすり替わってる。
意志が弱いのか、気候が悪いのか。というより、ただ構成を気にせずに書いているだけだね。こういう態度は良くないね。

さて残り半日をどう過ごそうか?
皆さんはどうしますか?
おそらく……思ったようにはならないよね。


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