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アポロンの顔をして 12【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

↓過去話はコチラから↓


12


『ここから逃げないと!』
 迫り来るスーツの集団にアポロンの幻影を見て恐れ慄いたわたしは、背を向け一目散に走り出した。逃げなくては、アポロンの目の届かぬ場所へ。
 救いはすぐそこにあるはずだった。北口まで行けば百貨店がある。まだアポロンに出会っていなかった頃に、ウィンドウショッピングで散々心をときめかせた女の園がある。デパ地下のスイーツならわたしを慰められる。オーガニックコスメやパンプスや、期間限定のレスポートサックのポーチなんかだって、きっと私を救ってくれる。
『そうだ。塗り直さなくては、この駅を』
 アポロン一色に染め変えられたこの駅で、自分の領域を取り戻す必要があった。しかしこの時間、駅前にも百貨店の入り口付近にも、サラリーマンがいない空間などありえない。神話においてアポロンが天から矢を降らせ人々を殺戮したように、とうてい逃れることはできないのだ。百貨店の入り口は封鎖されていた。地下階に至る入り口も、2階口に昇る階段も、すべて。わたしは走るしかなかった。アポロンの〝瞳〟冷笑する〝口元〟ハープを携える〝腕〟弓を引く〝背中〟目に飛び込んでくる全ての脅威が、わたしの心臓と肺を無慈悲に叩き割ろうとしてきた。
『痛いっ、痛い!』
 狂乱に陥るわたしは、その痛みの原因が本当に恐怖なのかさえも分からなくなった。もしかして……まさか……情欲、なのか?
 しかしその識別をするほどの余裕はこの痩せ細った体には残されていない。きっともう、その必要もない。わたしは今この生命を守るために無我夢中で走り抜けた。
 歓楽街、つぎに商店街を抜け、ちらほらとマンションが見え始め、どうにかこうにか閑静な住宅地にたどり着いた頃合い。アポロンたちはすっかりその姿を消していた。

 ようやく足を止めると、わたしの意志をあざ笑うかのように膝が笑った。荒れた呼吸を整えるために、ひとけのない夜の空気をめいっぱい吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。……そこで目の前に広がっていたのは、なんとあの人と初めて口づけを交わした公園だった。ふしぎと、思い出深い場所にもかかわらず、脅威はそこになかった。スーツ姿の男性たちに感じたような差し迫る脅威が、そこにはなかった。
 闇に原色の遊具が浮かび、街灯の上を風の独唱が行く。都会から身を潜める浄夜だった。わたしは最初の晩の、静謐と美性、それ自体をすっかり忘れていたのだ。
 突如として、眼下にひとりの少女が現れた。 「おねーちゃん、大丈夫?
 (知ってる?)」
 きっとあの日ビルの屋上から顔を出した少女だ。
「泣いてるの?
 (とてもとても残忍な神なのよ)」
 このとき、ようやっと少女の忠告のメッセージが届いた。分別は文字通り『痛い』ほど理解していた。だから今わたし自身が泣いているか否かは、もうどちらでも良かった。目の前にある艶めく髪の毛を愛おしみ撫でるように、少女の頭頂にそっと手を置いた。まん丸くて愛らしい黒の瞳に、髪が少しだけかぶさった。
「もう暗いから早く帰ってね。知らない男の人についていっちゃダメだよ」
 そのように告げて公園を後にしたのだが、少女に背を向けた瞬間から、わたしの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちていくのを感じた。塗りたくった化粧の皮を剥ぎながら、それは止め処なく続くようだった。 

 逃げ出すのにかかった時間は長く無間地獄のようだったのに、泣きじゃくりながら帰る道はあっという間だ。そこでもスーツ姿の男性とすれ違ったのだが、もういかなる身体の反応も起こらなかった。平静を取り戻したと言うには粗末すぎるが、対象に脅かされない点では同じだ。燃え尽きたのだ。
 駅の北口はペデストリアンデッキから続く。そこに至るために弧を描く階段を上り、その中腹に差し掛かった時、頭上に聞き慣れた曲の前奏が流れているのを察知した。重厚な機械音をバックにして女性の声が響く。
「今回リリースした20周年記念アルバムは、ファンの皆さんの人気投票で収録曲を決めましたー。その栄えある第1位は……そうです、あの曲です。それではお聞きください!」
 あの人を想いながら昼夜聴いた曲。再生回数100回の曲。階段を上りきると、駅の向かいのビルにはめ込まれた大型ビジョンの中で、例の女性グループが溌剌とパフォーマンスをしていた。

 一途に歌い、そして『愛してる』
  ……わたしはきっと「愛してね」と囁く。
 健気に歌い『愛してる』
  ……わたしならきっと「愛してよ」と呟く。

 相手を目前に置かず、ただ捧げるだけの愛の言葉なんて現実にあるか。あるとしても、それは本当に見返りを求めない独り言で済むか。
 そうじゃない。
『愛せよ!!』
 その瞬間、その場所で、わたしは膝から崩れ落ちて倒れこんだ。


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