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小説『あれもこれもそれも』1. ⑩

*過去の話はコチラから*

小説『あれもこれもそれも』
 story1. 呪術的な日常 ⑩

 今宵の客たちはなかなか帰りたがらない。土曜日の『つれづれ』はほぼ満席状態だ。ママ、メグミさん、そしてアキコさんがそれぞれのテーブル席やカウンターで接客をし、僕はその間を駆け回っていた。健斗は数分前にビールサーバーの樽を取りに外に出て行ったきりだ。なかなか戻ってこないことに苛々していた。件の常連客の前に女性が付いていなかったので、時折流し台に戻ってきた時に二、三言交わすようにした。前回あんな感じで会話が終わったけれど、きまりの悪さはなく、当たり障りない台詞が往来した。そう、ここには洗練された大人しかいないのだ。都合の悪いことは全て夜が洗い流してくれていた。それを掘り起こすことは野暮とされ、僕だってそのルールに乗っかっていいのだ。
 棚のワイングラスがほとんど出払っていて、奥の方に残されたグラスには埃や指紋が光っている。昨日は健斗の当番日だった。ますます感情が高ぶって後ろ首にドクンと拍動が走る。しかし顔に出してしまったら、また、自分が気づいていないような感情も含めて目の前にいる客に見透かされそうな予感がした。〝憎しみ〟を指摘したあの声を頂点として、その客の存在が僕の自意識を刺激してくる、執拗に。ワイングラスを拭き始める……僕は、目の前にいる客の目にどう映っているだろうか。やはり、呪わしい表情で釘を打ちながら祈祷をしているようにでも見えているのだろうか。自意識が脳の中で赤く腫れ、鼓動と呼吸が早くなる。早く、早く拭き終われ!

 ふいと、テーブル席から声がかかった。はっと、世界に立ち返って顔を上げると、メグミさんが手招きをしている。
「拓人君、リクエストよ。お願いできる?」
 それがピアノの演奏のことだとすぐにわかった。席の客たちの顔を見ると、すでに期待に膨らんだ顔が出来上がっていて、後回しにできる雰囲気ではなさそうだ。
 流し台の下の方に店内の音響ミキサーがあり、そのツマミを絞っていく。それまでラウンジを彩っていた軽妙なジャズがフェードアウトしていく。
 僕はギャルソンエプロンを外して店の奥へと向かった。ひときわ暗い空間にアンティークのアップライトピアノが眠っている。チェリーウッドの艶がここでは琥珀のように見える。床を引きずらないようにチェアを少し浮かせ、最適な位置に合わせて座る。わずかな申し訳なさと、かすかな自己顕示欲とが絡まって、僕の緊張がピアノの周りに立ちこめる。
 最初の音はいつだって怖い。気持ちを鎮めて、鍵盤に置いた指を降ろす。リュートのような優しい音が響いて僕は安心した。店内の喧騒がサッと静まるのを背中越しに感じる。始まりの単純な和音は、人間の隙間へ容易に染み込んだ。そして和声が微かに形を変えながら、山間の霧のように鍵盤を下って広がり、フロアの静寂を支配する。

   誇らしい恋の歌、
     思いのままの世のなかを、

   鼻歌にうたってはいるが、

   どうやら彼らとて自分たちを
     幸福と思ってはいないらしい

   おりしも彼らの歌声は
     月の光に溶け、消える  *

 ヴェルレーヌの詩をもとに作曲された、ドビュッシーの『月の光』。クラシック曲の中で最もポピュラーなものの1つだ。これを初めて弾いた中学生の時には、ヴェルレーヌという詩人の存在をまったく知らなかった。この詩を知って、曲の聴き方や弾き方が変わってしまったことが、音楽との接し方において正しいかどうかは分からない。でも一度知ってしまったら、もう戻れない……旋律や和声だけを純粋に追っていたあの頃には。かき鳴らすたび、この美しい音楽に秘められた、嫉妬や虚栄や無力感を思い起こさずにはいられなくなる。ひょっとしたら、こんなところに〝憎しみ〟もあるのかもしれない。
 中盤のアルペジオはテンポがだいぶ揺れてしまう。僕は指が転びそうになるのを堪える。揺られて、揺れて、ときどき揺らして、音は上ったり下ったりを繰り返した。僕の紡ぐ拙い音楽はいつもこうだ。辛うじて、辛うじて、でしか頂点に到達できない。今日だって………………

 遠い先を見つめながら、
  遥か奥の方へ向けて
   かつての旋律を鳴らす。
 でもそれは、いつかの日に
  見聞きした景色とは微妙に
   違っていて、その裏切りは
    きっと新しい情動を生む。
 人の暗い思いは分散する
  和音と共に、天から数多の
   光の粒を解き放ち、
     夜更けへと、溶けていく。

 ……ややあって、ラウンジは拍手で溢れた。僕はこの瞬間がいつも気恥ずかしくて、聴衆と共に曲の余韻に浸ったりはしなかった。振り返ってお辞儀をすると、そそくさとピアノの側を離れ、カウンターの中でエプロンを巻いた。


♢ 作中詩*出典 ♢
詩集「艶かしきうたげ」より〈月の光〉
堀口大學 訳『ヴェルレーヌ詩集』新潮社
noteに合わせて改行等をほどこしています


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