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メトロに乗るのは泣くためなんだ

涙腺がゆるい。著しくゆるい。
ゆるいに「緩い」はしばしば似合わない。
ゆるいはやはり「ゆるい」がよい。

電車での移動中に僕はよく不審者になる。悦に浸って、目を潤ませたり、不気味な笑みを浮かべる。しかし視線の先には、美しい人もセクシーな人もいない。視線の先はもっぱら、スマホの液晶の奥にある動画だ。
乗車前には読書や勉強をする自分を思い浮かべているのだが、いざ腰を下ろすと反射のようにスマホとイヤフォンを取り出してしまう。自動的な欲求に抗おうとした時期もあったが、今はもう、反射だから仕方ないと思っている。

メトロに乗るのは泣くためだ。地方に住んでいる僕にとって、顔見知りと遭遇する確率はかなり低い。「他人だとしても泣くとこ見られて恥ずかしくないの?」と言われてしかるべきだが、電車という空間は泣くためにもってこいの場所で、その利便性は羞恥心を容易に上回ってしまうのだ。
おそらく、少なからず人目があること、そして降車するまでに残された時間が予め決まっていること、これらが大事なのだと思う。際限なく泣けてしまうという点で、自分の部屋は弱い。人目がなくて、いつでも泣けることは、泣けないことに近い。そこでは我慢が足りなくなって、感情の勾配がどうしても緩やかになる。電車内では必然的に我慢を強いられる。
我慢、我慢、我……まん、が、ま、、(T ^ T)

求めていたのは決壊だった。

当然、人に心配してほしいなどという気持ちはさらさらない。都会の人は、電車内の人に無関心を装うことに慣れていてありがたい。全く関心がないとは思わないし、よく使われる「冷たい」という表現が当てはまるとは思っていない。しかし、表面上は無関心で冷たい。「人目」という観念だけが僕の頭に残る。都会の電車はどこまでも僕の世界だ。

先日は90年代のアニメ『スレイヤーズNext』を観て泣いた。25話と、最終回の26話。ここにあるシーンに僕の涙腺の臨界点がある。
ラスボス・フィブリゾが、主人公である魔導師リナに破滅の呪文を使わせるために仲間を1人ずつ殺していく。悲しみのあまり戦意喪失してしまうリナを、ある国の王女マルチナが叱咤激励する場面がある。王女と言っても、お転婆で高飛車なくせに非力というギャグキャラ。しかもゾアメルグスターという自身が想像上に作り上げた魔神を崇拝しており、訳の分からない呪術を始めては何も起こらないという茶番劇を見せてくる。笑

マルチナとリナを残して最後の仲間が倒された時、その男はマルチナに
「リナのファイトに火をつけてやってくれ」
と遺言を残す。それに対してマルチナは
「私、何もできない。ゾアメルグスター様がいないと何もできないの!」
と弱音を垂れる。男は「やれることをやればいい」と言い残して生き絶える。
意を決したマルチナは、持ち慣れない剣を振り回して果敢に敵に挑む。リナを鼓舞する言葉をひたすら叫びながら。しかし彼女もまたフィブリゾの力によってあっけなく倒されてしまう。

こうして文章に起こしているだけで、また泣けてくる。
本当は自分が無力だと分かっている。その無力さに気付きたくないから、気丈に振る舞ったり、高飛車になったフリもする。
自分の作り上げた神に祈っていれば、少しばかり力を持ったような気もして何とか生きていける。しかし、人生には自分の神が通用しない状況が必ず出てくる。そんな時……そんな時には自分にできることをやっていくしかないのだ、なりふり構わず。

アニメについて書いていると文が生き生きとしてくるな(笑) 
特に90年代のアニメは涙の宝庫だ。当時の声優陣の個性豊かな演技もさることながら、サントラの質も、その差し込み方も秀逸極まりない。
そこにおそらく僕の土台がある。あくまで物心ついた後の、意識できる土台としては。その上に生を積み重ねてきたのだから、これからも涙の道が続いていくと思う。泣く瞬間には、なぜ泣いているのか分からぬまま、ずっと続くのだろう。泣ける人間であることを確認するために、メトロに乗るのかもしれない。

追記:電車内でイヤフォンの音漏れをバシッと注意している人を見かけた。無関心じゃないね、たとえ自分のためだとしても。でも僕が車内で泣いているところを見かけても、どうか声をかけないでください。私のことは嫌いでも、マルチナのことは嫌いならないでください。

↑漫画アニメについての過去の記事↑

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