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アポロンの顔をして 11【連載小説】

2017年に投稿した連載小説『アポロンの顔をして』全15話を再掲・再連載しています。恋という“信仰”の破滅を描いたモノローグ的作品です。

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11


 午後6時。鏡の中の自分と対峙して慄然とした。苦しみの聖母だなんてとんでもない。そこにある顔の濃い陰影は、死期を間近に控えた人間のそれとさして相違なかった。想いを寄せる相手には、とうてい見せられる顔じゃなかったのだ。わたしは狼狽えていた。あと1時間しかない。3週間の苦行の成果が深部まで染み込んだ顔を、その短時間でなんとかしなくてはならなかった。職場の化粧室にこもってあれこれ試みたが思い通りの発色にならず、肌は次第に黒ずんでいくようだ。せめて隈がどうにかなればと思い化粧ポーチの中を漁るが、コンシーラーが見あたらない。駅の薬局で買うしかない。そう思い立ち、だいぶ細くなっていた足に鞭を入れた。しかし会社のエントランスを出るときにはもう既に、わたしの息はあがっていた。

 地下鉄に乗りいつもの駅へと向かう。改札を出て階段を駆け上がるとき、あの人と最初に出会ったときの甘美な記憶は蘇らなかった。目の下にある数ミリ幅の隈の方が重要だったのだ。混乱と狼狽は、わたしを信仰から遠ざかる方へと向かわせていた。あのときわたしは捧げていなかった。アポロンに愛されることの方を切に願ったのだ。〈わたし〉が愛を要求したのだ。
 薬局に着いたときには足元がおぼつかないような状態だったが、それでもなんとか肌の状態に合う商品を見つけ、駅の化粧室で最後の仕上げまで済ませた。塗りつぶした目の下は重くて突っ張る感じはしたが、見かけ上は辛うじて誤魔化せているようだった。心持ち平静を取り戻し、南口の改札前を通って待ち合わせ場所に急いで向かった。 

 その道すがら、いつかの日に見かけた若い男の集団と出くわして、また自然と足が止まった。まったくそんな状況ではなかったのに、自然と見入ってしまった。さすがに彼らひとりひとりの顔までは覚えていなかったが、場所と服装と、音楽に合わせて揺らす肩の動きから、同じ集団だと分かったのだ。しかし以前は10人ほど居てだいぶ目立っていたのに、今日は3人しか見当たらない。フロアの一隅を広く陣取って、3人ともが床のタイルに直接尻を付けていた。ただ不良っぽい男たちがたむろしているだけ、それならわたしとは全く縁のない人間たちだ。早くあの人のもとへ向かわなくては。いちど硬直した脚を持ち上げようとしたそのとき……
 ひとりが何の前触れもなく後ろに寝転がった。と思ったら、広げた両脚と腰を高くかかげ、頭を首を支点にくるくる回り出したのだ。ブレイクダンス、彼らストリートダンサーだったのか。さして珍しいものとも感じなかったが、不思議なことに踊っていないふたりは、突然回り出した男に一瞥をくれることもなく静かに体を揺らし続けていた。加わる様子もない。そうこうするうちに踊る男はスピンを急き立てていった。

 回る勢いを増して、
     勢いを増し
        増して、
          増し、
           頂点!

『パンッ!』
 何か弾ける音がした。
 完全に重力に逆らって瞬時に停止する体躯と四肢。重力に従ってずれ落ちるTシャツの裾と、はだけていく引き締まった横っ腹が、わたしの目にスローモーションで映し出された。男はゆったりとその背中を地面で転がして、いや背中で地面を転がしたようにも見えたが、悠然と胡座をかく姿勢に戻った。それはあざやかな身の捌きだった。そして何事もなかったかのように、また小刻みに揺れ始めた。揺れる3人は依然として互いに目を合わせることもなかったが、同じ生命体のような奇妙な一体感を醸し出していた。  
「……すごい」
 思わず口から出た自分の言葉で、我に返る。時計を見やると午後7時、ちょうど待ち合わせ時刻になっていた。彼らに多少後ろ髪を引かれながら、南口を後にしたのだ。

 数分とたたないうちに待ち合わせ場所のファーストフード店の前にたどり着いた。しかしあの人の姿は見当たらない。焦って鞄から携帯電話を取り出して見ると、いつの間にかメッセージが届いていた。

〈こんばんは。今日会う約束だったのですが、すみませんが行けません。突然母が地元から東京に来ているようで。申し訳ないけれどリスケをお願いします〉 

 携帯電話を持つ手が力なくだらりと落ちた。佇むわたしは店の前に並ぶ列の邪魔をしていて、迷惑そうに押し出され、横へ追いやられた。そこは地下鉄の階段の真ん前。『会いたい』の芽は立派に成長して樹木になっていたが、この瞬間に幹の根っこに近いところをへし折られたのだ。しかし深く張った根とは完全に断絶しておらず、その場所に立ちつくしているしかなかった。
 ふと、仄暗い階段の奥から列車の乗り入れる音が響いてくるのを聞いた。その音は漸増し、漸減し、断末魔の叫びのような金切り声とともに止んだ。そして地下からちらほらと人が上がってくる。
『えっ、あの人?……人違いか』
『アポロン?……人違い』
 そのうち無数とも見えるスーツ姿の男たちが、階段を上がって来たのだ。みな悪びれることのない、涼しげな顔で。そうアポロンの顔をして。
『ここから逃げないと!』


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