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1 舞師の青年 【葬舞師と星の声を聴く楽師/連載小説】

連載小説『葬舞師そうまいしと星の声を聴く楽師がくし』です。
全体のあらすじ、登場人物紹介、用語解説、前話までの振り返りなどは↓の記事をご覧ください。


1  舞師の青年


「かわいそうに。もう丸三日も、ああして墓の前に座り込んでるんだ」
 壮年の男の言葉に旅人は眉をひそめた。その墓は村落の外れのうら寂しい荒地にあった。墓といっても、土を盛り、木の枝を立てただけの貧相なもので、枝は真っ直ぐでなく、短く、無様だった。有り合わせのものしか用意できなかったことに男は忸怩じくじたる思いでいた。
 墓の前には幼い男子がひとり、石のように座り込んでいる。彼のためにももう少しまともな墓を拵えてやりたかったのだが、木樵きこりが山から下りてくるのも、行商人が渡ってくるのもしばらく先のことだった。

 この日、彼らの代わりに村落を訪れたのが、奇抜な格好をしたこの旅人だった。白の上衣は砂埃に塗れていても上質と分かるもので、襟や袖口には色鮮やかな刺繍が施されている。貴族の住む街に行ってもほとんどお目にかかれないほどの上等品だ。こんな衣を纏うのは一体どんな丈夫じょうふかと思いきや、まさか成人の儀を迎える頃合いの優男ではないか。
 乾季の日差しをまるで知らない白く柔らかい肌、薄っぺらい躯体から伸びる細い手足には、肉体労働の痕跡がいっさい見当たらない。
 体格が物を言うこの界隈では嘲笑の対象にもなりかねない風貌だったが、彼が村落に足を踏み入れたその瞬間から、すれ違った村人たちの誰しもが圧倒されて息を呑んだ。やや癖のついた栗色の前髪から覗くのは、新緑を染み込ませたかのような瞳。それぞれがそれぞれを高め合う顔のパーツ。旅人の中性的な美は、すぐさま村全体を巻き込んだ宗教体験となった。

 壮年の男はこの村落の運営から些事までの何もかもを取り仕切っている。村役と呼ぼう。彼が不時の旅人をここへ連れてきたのは、義憤と憐憫の情からだった。
「西の国の軍隊だよ。演習とかいう名目で、荒野で新しい兵器を撃ち試しては、うちみたいな周辺村落を恐怖で支配しようとする。あの子の母親は水汲みの帰途で流れ弾を食らっちまった。あの子にはとうてい言えないが、片方の脚しか見つけてやれなかったよ」
 村役は拳を握りしめて声を振るわせた。しかし旅人は彼には一瞥もくれず、墓石のようになっている幼子をじっと見据えていた。
「……まあ俺に任せておいてよ」
 そう告げて歩き出す。華奢な背中の先にある空で、陽が大きく溶けて西の地平に傾いていた。

「なあ、お前」
 旅人は少年の手前で立ち止まり、ぶっきらぼうに声をかけた。少年は拳を腿の上に置いたまま項垂れており、旅人の声にはいっさい反応しなかった。
「お前の母さん、毎日何に祈っていた?」
 やや強い語気が少年の肩を小さく跳ねさせた。しかし口は閉ざされたままだ。
「何に祈っていた?」
 リフレインが思いのほか優しく、少年の脳裏にほんの数日前に祈りを捧げていた母の姿が浮かんだ。
「……スファーダさま」
 少年の口にあいた小さな隙間から、蚊の鳴くような声が漏れた。この一帯でもっとも広く崇められている神の名だった。それを聞き取ると旅人は即座に頬を緩めた。
「なら話は早いな。見てろよ、俺が母さんを救ってやるから」
 彼は上衣の前立てを掴んで、勢いよく脱ぎ捨てた。引き締まった上半身があらわになり、西陽が肌に筋骨の陰影を刻んだ。

 旅人は右脚を軸にして、左の踵で大地を踏み鳴らし始めた。時に垂直に叩きつけるように、時に地表を擦って研磨するように、場にさまざまな音を刻み込んでいく。
 少年は否応なしにその音に引き寄せられていった。不規則な律動が耳から入ってきて脳を揺らす。初めての恍惚体験に耐えきれなくなり、少年はようやく顔を上げて旅人の姿を見やった。
 旅人は踵を鳴らしながら、荒れ地の中央へと移動していった。そして墓標たる粗末な枝を見据えながら腰を落として、ゆっくりと舞いはじめた。赤みがかった土を広げただけの荒地が、一瞬で静謐な舞台と化した。

 急きたてるような脚のリズムから一転して、今度は非常に遅い動きだ。それぞれの脚で弧を描きながら、自らも緩やかに回旋する。地を這う大蛇のような、おどろおどろしい動き。
 多くの舞踊のような華美な手の動きは伴わない。腕は時おり前へと伸ばし出され、水を掻き分けるように後ろへと回された。美的な意義も形而上的な意味も持たない、動きとしての、動きのための、動き。
 その間も回旋は続けられる。不規則に。身を低く屈めたまま、両脚を翼のように広げながら、それぞれの脚が自在に回旋するのを許しながら。ぶかぶかな下衣の中で彼の足腰の筋肉は絶えず緊張し、はちきれんばかりに隆起していた。しかし外からはこう映った。禽鳥に吊り下げられているのか、はたまた目に見えぬ大地の精霊が彼の体を支えているのか。

 リタルダンド──異国の言葉でテンポを次第に落としていく表現技法らしい。動きはさらに、ずっと、遅くなっていき、時間が、永遠にまで、引き延ばされていった。
 そして、終幕。永遠の時間を獲得した舞師は舞台の中央にゆらりと倒れ込んだ。墓に伏拝して寝そべる姿は、舞にまだ続きがあるかのような深い余韻に満ち溢れていた。
 いったい、このうらぶれた墓の前で何が起こったのか。全体を通せば、激しくぶつかり合っていた波が静穏な海へと還るかのような厳かな舞台だった。しかしそんな解題になんの意味があろうか。この舞を観たものはただ圧倒されただけだ。大地が永遠の中でうねるのを、畏怖の念をもって沈黙のうちに凝視させられただけだった。

 少年はいつの間にか立ち上がって見ていた。しかしその面持ちはいまだ晴れないままだ。舞師は体を起こすと、落ちた上衣を拾って少年のそばに歩み寄った。
 少年の顔が、踊りを披露する前よりもほんの微かに前を向いているのが見て取れた。
「ねえ、おかあさんはどこにいったの? もう、あえないのかな?」
 聞こえてきたのは、押し殺すでもない、打ちひしがれて力の所在を忘れてしまった声。
 舞師はおもむろに両腕を掲げ、手の平同士を強くぶつけ合った。響き渡る甲高い音に、少年の全身の筋が反射的に痙攣して、弛緩した。
「手を叩けば音がして消える。土を踏み鳴らせば痛みと感触が生まれて弾ける。その “ひとつひとつ” にお前の母さんはなったんだよ」
 スファーディ教の祖霊供養を詠う一節、死者は神と合一し世界に遍く存するようになる。旅人の言葉は〈お前が生きるかぎり母もまた傍で生きている〉というメッセージだった。
 呆然と立ち尽くす少年、舞師は彼の頭の上に手を置き「分かるか?」と優しく問いかけた。すると突如として、少年の内に荒々しい渦が巻き起こった。理解の及ばないもの、心が受容できないものを飲み込んで、娩出しようとする激しい情動の渦が。
「……わからない。ぼく、ぜんぜんわからないよ!」
 3日間ひと粒たりとも流れなかった涙が顔全体を一挙に濡らして、哀哭と共に大地に産み落とされた。
 少年の喚き声は村落のもっとも遠いところまで届いた。彼と彼の母親を知る者たち、すなわち村民全員が、その声のうねりに身を委ね、めいめい追悼の念を新たにした。そして少年の哀しみの烈しい発露に、そこはかとなく安堵したのだった。

 これが或る舞踏集団の血統を継ぐ青年アシュディンが「外の世界」で葬舞ダアルを舞った初めての日となった。見届けたのはいくつかの国境線の交わるところにあるこの村落の民と、そしてもう1人。
 アシュディンが舞っている間に、村役の隣には別の旅人が来ていた。この男も今朝がた村を訪れたばかりだった。長身に屈強な躰を持ち、旅人らしく頭部に布を巻き、肌は黄金色に焼けている。
「お前さん、楽師なんだろ? 楽師ならば、あんな見事なダアルに音を当てたいと思うものだろう。どうだい今からでも──」
「いや」
 村役の誘いをすげなく遮り、長身の男はそれまで見つめていた目をアシュディンから逸らした。そして厳しい顔つきでぼそりと呟いた。
「あんなもの、俺の知るダアルではない」
 舞が終わる頃には、その男は荒れ地の前から姿を消していた。


── to be continued──

次話

本作は不定期連載です。
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