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火曜日のアナーキストを野に放つ

今日のテーマは火曜日の自分。今日は間違いなく木曜日だ。サブテーマは「詩とは?」

今週の火曜日、僕は憤っていた。ある職場で不当な対応を受け続けていて、しかるべき場所に訴えていたにもかかわらず全く改善しなかったからだ。
その日、僕は怒りを雇用主に向けて爆発させた。すると彼女は
「改善のために体制を見直しますね」
と笑った。
ほう、やはりそこで笑うか。オレには分かっているぞ。これは体制の問題ではない。権力を持つものたちの奢りによって生じていることだ、と。
ここ数年、火曜日はいつも怒っている気がする。当然職場環境のせいかのように書いているが、実は単にバイオリズムによるものかもしれないし、正直よく分からなくなっている。
環境に不満はあるものの、それは一面的なものだし、明白なのは僕1人の個人的な感情だけだった。

さて、火曜日が過ぎれば普段通りのれんと君。怒りは忘れて素敵なウェンズディ〜♪
……という風にはいかなかった。
どうも元気が出ない。怒りを爆発させた反動か?
(やはり大人気ない対応だったかな??)
などという考えが頭の中を巡り、ぐーるぐる。
そんな気分が人に伝わってしまったらしく、まさかLINEをしていた友人になんの脈絡もなく
〔弱気なれんとは似合わない、いつもの強気のれんとが良し〕
と唐突に言われる始末。
見透かされたようで悔しいっ!!

しかし気になったのは、弱気・強気という言葉だ。僕っていつもそんなに強気だったっけ?

僕はどうも、木曜日の自分を素の自分だと思いがちだ。
木曜日の自分とは、ほんわか・のほほんとしていて、ちょっぴり弱気だけど人畜無害な自分だ。
友人に指摘されたような、かなり強気な自分の自覚がないわけではない。
それでも自分の素は、自分の本質は、きっと木曜日に近いんだぁ〜、明日こそはふんわり・ぽよよん〜〜〜


……はい、これって完全な抑圧だ。
そう、醜い自分は隠したいのだ。
他人に対して隠したいのではなく、自分に対して隠したいのだ。


がっくり肩を落としていた夜に、Twitterでタグお題を見つけた。
「#自分の名前を使って詩を書く」
何の気なしにやってみる……と、
ああ、まさか、こんな言葉が自分の内から出てくるとは。
詩の中で、夜を睨みつける男は間違いなく潔い怒りを発露していた。
ちょっと怖いな。
どこがふんわりぽよよんだよ?笑

火曜日の僕は、自分の中にいるアナーキストの顕れだった。そいつは自分が正しいと思い込み、邪魔する者をひたすら排除しようとする。
恐ろしいけれど、力強く自律していて、頼もしささえ感じる。

一般的に、人間は言語を使って思考すると言われる。感情だって同様に言語化できる。
しかし多く我々が使っている思考は、日常的・常識的な言語の詰め合わせから、あり合わせるように取り出す作業にすぎない。
私たちが後から思い返して構成する人生だって、自分の中にある小物語のテンプレートを、ただ組み合わせているだけなのかもしれない。
だから一生懸命考えて、考え抜いて、自分の文章や物語を作ったつもりでも、いつも似たり寄ったりだったり、なぜか同じテーマ(自分)に行きついてしまう。

しかし詩には少し違う機能がある。
(短歌や俳句にも同じことが言える気がするのだけど、門外漢なので深く追求しない←)

「ハッ」とする。
それまで流れてなかった水脈に、一気に水がなだれ込む。驚きや気付きが訪れる。
発見なのだ、詩とは。
読むときも、書くときも。
そこには新しさが必要なんだ。
言葉で遊んで、言葉に弄ばれているうちに、気付いたら自分の内に知らない自分を発見する。時に新しい自分を発明すらできるのかも。

あの晩、アナーキストな自分を発見した。その自分は「部分」と呼ぶにはだいぶ大きく、一枚皮の下で蠢いていた。
なのに、なぜ気付いてあげられなかったのだろう?
それは結局は「見たくない」という感情ゆえなのだ。その「見たくない」は僕の感情の主流だった。理性と紐付いた感情の本流。

……臭いものには蓋。それも良いと思う。しかし、人間存在というものが、あらゆる感情や思考や行為の歯車だとしたら、恐ろしい自分の発見がマイナスに働くこともあるまい。
これまで通り、みんなで一生懸命働くだけだ。

ごめんよ、火曜日の自分、放っておいて。
君を野に放つよ。
少ししたらちゃんと帰ってくるんだよ。


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